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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  岩戸城の土塁 岩戸城 岩戸城の空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/07のブログ 鎌苅館 高田山城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村岩戸
歴史、人物、伝承

岩戸氏の居城とも
 「千葉県印旛郡誌下巻」、「印旛村史」などによりますと、鎌倉時代末期に千葉氏一族の臼井氏に仕えた岩戸五郎胤安の居館(居城)と伝わるとされ、岩戸五郎胤安は正和3年(1314)に臼井氏の家督相続争いに巻き込まれ、臼井一族の志津次郎胤氏の攻勢によりこの居館にて討死を遂げたとも云われています。
 その後の岩戸氏の消息は定かではなく、確かに同村内の鎌苅館と同様に台地基部に所在し、要害性を重視した戦国期に構築された城館とは異なる立地条件となってはおります。しかし現存する遺構規模から見る限りでは、「日本城郭体系」等でも指摘しているように、師戸城或いは臼井城などの支城群のひとつとして臼井氏、臼井原氏などの支配下で戦国期に至るまで機能していたものと考えるべきなのかもしれません。

確認可能な遺構
 土塁、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月7日 15時50分から16時05分
訪城の記録 記念撮影

 残り時間が...
 この日はこの時点で未だ本日の最低目標の半分に満たず、また日没までの残り時間と西側の雲の厚さ等を考慮して、僅かに15分という誠に慌ただしい足早の見学と相成りました。
 尤も臨済宗西福寺(文和2年(1353)に岩戸氏の居館跡に建立されたとの寺伝−「印旛郡誌」等より−)の境内地そのものなので、あれこれと場所を探すような手間は全くかかりません。まして寺院の入口から土塁そのものがすぐに目に入るという好条件でしたが、ご本尊の所在が分からないので取敢えずは寺院の本堂の方に向かって参拝を。
 現状の遺構は空堀を伴う単郭60m四方ほどの方形館ですが、郭内からでも土塁の高さは3mを越える個所も確認され、土塁・空堀ともに北辺と東辺の状態が良好であるという印象があります。南辺も土塁部分については概ね残存している模様ですが空堀は消滅しているものと思われました。なお、空堀については北東角付近の深さが際立ち、土塁の外側では目測で最高で約5mの深さを測ります。
 また、「印旛村史」によりますと南西方向の地続きに「陣屋」と呼ばれる一部土塁を伴う区画が存在しているとのことですが、残り時間の関係で未確認のままとなっています。

( 2010/01/03 記述 )
岩戸城の郭と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
岩戸城の内郭及び南東と北東辺の土塁 画像−A−
( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、下記の概念図については「印旛村史」掲載の略測図(1981年12月)を基本に、現地でのごく大雑把な印象などを加味して作成してあります。

岩戸城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
岩戸城の南東辺土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
岩戸城の北東辺土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 南東辺土塁
 郭南端から東側土塁と北側土塁を撮影したもので、現状の土塁の高さは郭内側の低いところでも2m、高いところではから3mを超えています。
 なお「印旛村史」によると、画像右側に認められる小口状の土塁の切れ目は近年のものとのこと。
⇒やや幅広い地形で「印旛村史」によると櫓台とも言われている南角の土塁(1-1)
⇒現状での最高部に相当すると思われる東角付近の土塁(2-1)
凸2 北東辺土塁
 東角付近の土塁上から北東辺の土塁を撮影したもので、「印旛村史」によりますと、昭和50年代頃にはこの先の西方にも郭状地形が確認されていた事が記されています。なお、現状でも土塁のラインそのものは続いているように思われるのですが、この後船戸城と師戸城の2か所を回る予定もあったためその詳細は未確認です。
⇒南東土塁上から撮影した幅10mを超える南東辺の空堀(2-2)


北東辺の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
西角付近の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北東辺の空堀
 東角付近より撮影した空堀の最深部で、少なくとも5m以上の深さを有し、このように急角度の傾斜も認められます。
 このため堀底に降りたところまでは良かったのですが、土塁上に戻るべくこの斜面這い上がるのには難渋をしました。
⇒土塁の東角部分より南東側土塁(3-1)を撮影

凸4 西角付近の土塁
 境内の整備などにより右手の土塁部分はある程度の地形改変が行われた様子が窺えます。
 またこの土塁の切れ目がかつての小口に相当するのかどうかは判然としないのですが、画像左手の土塁規模の大きさと考え合わせると櫓台を伴う構造であったのかも知れません。
⇒拡大した画像左側の土塁(4-1)の画像

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県印旛郡誌下巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)
⇒「新撰佐倉風土記」「下総旧事考」「總葉概録」などの記述を引用しています。
「印旛村史」(1984/印旛村)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
⇒「戦国期に岩戸氏が成田下総守長氏、荒木三河守らにより攻め滅ぼされた」との記述がありますが、関東管領上杉氏(長尾景虎)の永禄年間の関東侵攻等を題材とした近世軍記物特有のフィクションとして捉えるべきものなのでしょう。
■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「利根川図志」(赤松宗旦/1938/岩波書店)
「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)

■その他
「余湖くんのホームページ」

・2010/01/03 HPアップ
・2019/06/19 画像ズレ補正
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