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千葉県印西市の城館索引へ戻る  平岡城 平岡城のバナー 平岡城の切岸
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/12/05のブログ 井之内城 浦部竜崖城
所在地
 千葉県印西市平岡字東
歴史、人物、伝承

経緯不詳の城郭
 西方の井之内城と同様に下総台地北西部に所在している。「利根川図志」によると「常総軍記巻20」を引用し、岡見家家臣栗林下総守義長が、天正13年の「印西合戦」の際に竹袋(城)から平岡(城)へすすみ小林城(現印西市)を攻撃した旨の記述がある。然しこの栗林義長という人物については、戦前において既に柳田国男氏が指摘されているように、あくまでも話の筋を面白くするための近世の「軍記物」に登場するに過ぎない諸葛孔明を模した架空の人物であることを明示され、「常総軍記」(「東国戦記」とも)に記されている一連の事跡については史実とは相容れることのできないフィクションとして性格付けられている。(岩波文庫版「利根川図志全六巻」解題より)
 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)によれば、腰郭、土塁などを伴う中世の城館遺構として推定されている。城跡西側の天台宗東大寺には元亨年間、応仁年間、文明年間の武蔵型板碑が伝存し、地理的事情から推測するとすれば、戦国時代後期においては千葉氏一族である臼井原氏の影響下に置かれていたものと想定することもできるが、いつの時代まで城郭として機能していたかについては明確とは言い難い。

確認可能な遺構
 郭、土塁、切岸、腰郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年12月5日 11時20分から12時30分
訪城の記録 記念撮影

 意外な掘出物 ( 2010/12/13 記述 )
 利根川方面を見下ろすことのできる水田面からの比高差約20m、長さ約200mほどの東西方向にのびた竹林の丘陵上に郭、腰郭、土塁、切岸などの城郭の存在を示唆する遺構群が健在していました。半ば無名に近い城郭のようですが、 けっして小規模な遺構ではなく丘陵全体に遺構が展開しています。
 四半世紀以前の限られた資料などから想定するかぎりでは、井之内城と同程度の状況を思い浮かべておりました。従ってそれほど大きな期待を抱いての探訪ではなかったのですが、意外性のある本格的城館遺構を目の当たりにして久しぶりに行動意欲が高まっていったのでありました。

平岡城主郭(推定)付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
平岡城主郭(八幡神社)付近
( 2010/12/05 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地での印象を基に、「電子国土」の地形図等を参考にして作成いたしました。

平岡城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
主郭と推定される八幡神社 ⇒ 画像クリックで拡大します
腰郭と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 主郭と推定される八幡神社
 この部分のみに限定すれば近世以降の神社建立に伴う土塁遺構と見ることもできます。
 利根川方面の眺望、西側から南側にかけて取り巻く郭の存在、西側崖線部に残る土塁と大規模な切岸遺構、その南側に続く郭状地形の存在を考慮しますと平岡城の主郭部分として捉えることに違和感は無いものと考えられます。
凸2 腰郭と切岸状の地形
 東側の丘陵中腹に所在する腰郭と呼ぶにはかなり大規模な郭状の地形です。丘陵の尾根筋から掘下げたような印象を伴う人工的地形をなし、尾根筋からの切岸としての比高差は目測でおよそ7m前後を測り、丘陵麓との比高差自体も10m前後を有しています。後世の耕作地跡との関連も想定されますが、耕作には不向きの北東方向に面しています。

堀底道 ⇒ 画像クリックで拡大します
平岡城の西側斜面 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 堀底道
 天台宗東大寺の東側の市道脇城跡へと続く竹林の中の堀底道で、直線の見通しが利かず左右から横矢のかかる構造を有するとも見ることができま、あるいは大手口とも考えられる地形のようにも思われました。
凸4 平岡城の西側斜面
 城跡西側の市道の坂道で、画像右端から城跡への堀底道が続いており、強いて言えばこれが城跡への入口となります。
交通案内

・比高差は約20m、西側の市道に面した堀底道を東へすすみ八幡神社付近が主郭と推定される。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「東国戦記実録」(小菅與四郎1926初刊/1971影印版/崙書房)
 茨城県筑波郡足高村(現つくばみらい市)の小菅與四郎(こすげ よしろう)氏が、「東国戦記」と呼ばれていた常総の戦国時代について記された軍記物をベースにして、明治末期から大正末年にかけて補訂を行い大正末年に編集刊行したもの。
 底本とされる近世において流布していた「東国戦記」の原本(「写本」のみ現存)については、「国立国会図書館」では未所蔵ですが、「国立公文書館」および「東大史料編纂所」に写本(「異本」か)の一部などが現存するとのことです。ただしこれら現存する写本と同一のものを使用したのかについては定かではない模様です。
 (「国立文学研究資料館の公式HP」「国立公文書館の公式HP」「伊奈町史−史料編1」等を参考)

「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。文体は些か異なりますが、その内容については上記の「東国戦記実録」と共通するものとなっています。
 この部分については、その大半を下記「戦国軍記事典 群雄割拠編」より引用しました。
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)

千葉県印旛郡誌後篇」(1912刊/1971崙書房より復刻)→平岡」の地が利根川方面の眺望が良好であることが記されているのみで、平岡城に関係する記述は見られない。。

「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)→常総の中世における水運(水軍)と在地領主の動向が詳述されています。
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料
・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。
 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付して発刊をされたもので、同氏によれば「常総軍記」について「東国戦記」とも称すると指摘をされています。
 この岩波文庫版の巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠き、また復刻版であることなどから全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めないようです。

「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという要素を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、その底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によるものであることが記されています。

■その他
「ふさの国文化財ナビゲーション」HP


・2010/12/13 HPアップ
・2019/06/17 画像ズレ補正
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