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素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県鎌ケ谷市の城館索引へ戻る  初富野馬土手 初富野馬土手 初富野馬土手
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/02/06のブログ
所在地
 千葉県鎌ヶ谷市東初富1-20
歴史、人物、伝承

野馬土手
 中世城館の土塁遺構と紛らわしい江戸時代初期に設置されたとされている小金中野牧に属する野馬土手のひとつです。野馬土手は牧と村落の境に設けられ、野馬による農作物の被害を防いだといわれています。
 野牧関連施設の中には一部中世城館を再利用したと考えられる事例(手倉砦神々廻城など)もあるようですが、この初富野馬土手については元々野馬除けとして構築されたものと見られているようです。
 また牧を管理する牧士には名主階層などの有力農民が選任され、なかには戦国時代の武士から帰農した人々も存在していたようです。

確認可能な遺構
 野馬土手
文化財指定
 国指定史跡(2007年2月6日)、鎌ヶ谷市指定文化財
訪城年月日
 2010年2月6日 11時20分から12時10
訪城の記録 記念撮影

 所在地の表示 ( 2010/09/08 記述 )
 初っ端から肝心の所在地を勘違いしたらしく、風も冷たく埃も舞い上がる細道をブツブツと呟きながら北西の畑の方をうろうろし10分ほどのタイムロスをしてしまった。この経緯について帰宅してから調べてみたところでは、鎌ヶ谷市のHPに掲載されていた所在地表記では東初富1-2となっていますが、現地の解説板には東初富1-20となっておりましたので、どうもこのあたりの情報の不一致に原因がありそうな。
 近世の牧の設置にともなう馬除けの土手は、直線状に凡そ5か所に分断されて現存。無論状態が良好で最大の土塁は初富小学校の校庭西側。しかしそれ以外にも北側に向けて3か所ばかりの土塁の断片が現存し、地図上でざっと計測してみたところでは、最短でも250mほどの直線状の土塁が形成されていたことに成るようです。現状では背丈ほどの高さしかなく、これでは馬除けの役には立ちそうもないようにも。小型の国産馬としても、往時にはもう少し高さがあり、かつ柵や堀などが廻らしてあったのかも知れません。

初野野馬土手 ⇒ 画像クリックで拡大します
初野野馬土手
( 2010/02/06 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)この「概念図」については現地での漠然とした印象に基づいて作成しましたので細部については不正確です。

初富野馬土手跡の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
初富野馬土手 ⇒ 画像クリックで拡大します
初富野馬土手の北辺部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 直線状の野馬土手
 この個所については、たまたま250mほどの直線状の形態をとっているに過ぎないようです。実際には集落と野牧を隔てたり、野馬を捕捉する関係から画像「2」の現地解説板が示すように複雑な形状を呈していたようです。
凸2 北辺の野馬土手(2−1)
 住宅地の間にポツンと残っていた、この北辺の部分の高さは2m強、土塁全体としては高さ1.8m、基底部の約幅6mほどの規模です。
現地解説板(2−2)
土塁の先端部(2−3)

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係


■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「印西牧場之真景図の世界」(平成21年度企画展
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)

■史料


■その他
「ふさの国文化財ナビゲーション」HP
「鎌ヶ谷市公式HP」

・2010/09/08 HPアップ
・2019/06/22 画像ズレ補正
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