凸 藪で日没
新宮城の南西約50mに谷を挟み所在しているのですが、この谷を直登するというのはかなり厳しく、新宮城へと向かう里道に戻り、住宅側の下を通る道からのアプローチを試みました。しかし近年の倒木や竹木の藪などのため多少の困難を伴うものでした。画像のように肝心の谷の入口が倒木により塞がれており難渋を極めました。この時点で体力は残されていたのですが、この日8か所目となることから気力の方が欠乏しはじめてしまい、1時間に1本の草津線の時刻も気にかかり、西側と南側の土塁切岸を目にしたのみで撤収することとなりました (^^ゞ
こうしてあざとく遠景のみの撮影も含めれば、無事に9か所の探訪を終えることができました。 今回の遠征は1日目にしてモチベーションの維持が揺らいでしまいましたが、その後どうにか立てなおし3日間で、たぶん23カ所以上の城館跡探訪を成し遂げることができました。これで昨年の分を含めますと、いちおう甲賀市内では旧水口、旧甲賀、旧甲南の3地域を〆て40か所以上を彷徨したことになり、何とかある程度の方向感覚も生じ少なからずその地域性を感じ取ることのできるような感触になってきたようにも思われます。従って全く訪れてはいない地域は土山と信楽方面となるのですが、ますます公共交通機関が不便な地域となってしまうことになりそうです。こうしたこともあり、そろそろ滋賀県内でも他地域に足を延ばすことも視野に入れて始めていることなどもあり、来年以降の当地域再訪の見通しは全くの白紙となっております。
( 2018/2/7 )記述
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新宮支城南西付近 −画像A−
( 2017年12月12日 撮影 )
「画像2」の個所から膝上から腰の辺りまで伸びた草をかき分け南側の堀切西端付近に到着しましたが、この先は画像右手から続く小さな谷筋の流路部分に相当していることもあり、12月中旬とはいえ足元の地番は極めて軟弱になっておりました。画像左側は主郭西側の土塁切岸となりますが、足元の沈みこみもあるため、そう簡単には這い上がれそうにはありませんでした。
新宮支城南側堀切 −画像B−
( 2017年12月12日 撮影 )
小さな流路を倒木の上を歩いたりしてやりすごして、どうにかこの堀切の先端部まで来たのですが、今度は倒木群に進路を阻まれ、やむを得ず画像右手の斜面を這い上がり「画像C」の個所へと移動しました。※別途城跡東麓の県道49号線沿いからのルートもあるようなのですが、登りが苦手なのでついつい楽をしようと思ったのが間違いの元のようでした (^^ゞ
南側土塁切岸 −画像C−
( 2017年12月12日 撮影 )
新宮支城の主郭部南側の土塁切岸です。この地点から斜面を下りて東側に回り込み郭内を目指すつもりでしたが、既に疲労のため足首に力が入らなくなり始めておりました。時刻も午後3時を過ぎ、足元の地面もストックが20cmほど埋没するという特有の柔らかさもあり、最悪の転倒、捻挫という局面を回避すべくあっさりと撤退をいたしました。あらためて地面自体は柔らかさを感じるにもかかわらず、斜面の土は流れにくいという不思議な感触を痛感しました。なお、手前の部分も城跡の一部のような尾根筋の人為的な加工の形跡が感じられます。
国土地理院航空写真より編集加工 −画像D−
( 2018年2月7日 作成 )
国土地理院の電子国土サイトからダウンロードし手を加えたもので、北西約200mには服部城、南約50mには新宮支城ともいわれる城館跡も所在しています。なお南側の方形の道路はこの当時に開始された住宅地の造成工事に伴うものです。今回(2017年12月12日の探訪)は寺前城、村雨城、杉谷砦方面へは時間切れのため足を延ばすことができませんでした。
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