滋賀県内の城館跡目次
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滋賀県の城館索引へ戻る 大原城 大原城のロゴ 大原城
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月11日のブログ 多喜城 多喜南城 多喜北城
所在地
 滋賀県甲賀市甲賀町田堵野小字下垣外
歴史、人物、伝承

大原氏の城館
 大原氏は多喜氏を中心とした伴四党(大原、上野、伴、多喜)の一族とされ、杣川と櫟野川が合流するこの田堵野(たどの)にその館を構えた。「甲賀市史第2巻」によれば、戦国時代には多喜氏とともに甲賀衆の一員として足利義輝の奉公衆として仕えていた可能性を示唆している。また同書によると、大原氏は永禄13年(1570)「大原同名中」を組織して一族としての結束を図っていたことが32か条からなる「大原同名中与掟写」として残されている。(「近江国甲賀郡田堵野村大原家文書」)
 そののち天正13年(1585)大原氏は他の甲賀衆とともに紀伊太田城攻略の不手際を理由として「甲賀ゆれ」(改易処分)の対象となってその領主権を剥奪された。「兼見卿記」の天正15年1月26日の記述によれば、前年に大原監物大丞(おおはらけんもつだいじょう)らの甲賀衆が伊勢国に在国していたことを示唆していたという。豊臣氏による新たな支配の始まりに当り、「甲賀郡中惣」などの自立した在地差配構造を嫌った上位権力者による専横の典型事例であろうか。大原氏はこの地に留まり帰農した人々もいたようで、「甲賀郡志」によると遥か後の慶応4年(1868)には戊辰戦争に際して官軍に従い越後、奥羽に転戦したともされている。
 甲賀市内における良好な遺構の現存する代表的な平城の一つである。

確認可能な遺構
 土塁、郭、堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月11日 14時40分から15時00分
訪城の記録 記念撮影

 疲労回復
 この日は甲賀市の2日目でした。当日の天気予報では一日中曇りとのことでしたが、予報に反して時々太陽が顔を出すような天候となりました。前日の1日目では和田城館群を訪れたものの、時刻は午前11時近くからの探訪開始ということもあり、探訪可能な時間も限られるとともに給水に失敗したりして不完全燃焼となりました。疲労感だけは十分すぎるくらいありましたが、熟睡に突入する前に、冷静に己の気力・体力の衰えを分析評価。当初予定していた旧甲南町池田大日池周辺の城館めぐりについては、その歩行距離が30kmを超えることが予想されたことから断念するに至り、その代わりに比較的アプローチしやすそうな旧甲賀町の滝、毛枚方面の城館跡へと変更したという経緯がありました。
 しかし変更した「油日駅-獅子ヶ谷城-山岡城-毛枚北城-多喜南城-多喜城-多喜北城・・・甲賀駅」という探訪ルートも移動距離は短いものの、その全てが藪城に近いようなものでもありました。このため午後2時過ぎというかなり早い段階で疲労感が蔓延し、多喜北城は目前でスルー、梅垣城は登り口が反対側なのでスルーという誠に情けない状況に陥っておりました。
 そうしたなか、この典型的な単郭方形の平城を目にしたときには半ば消滅していた感のあった生命力が蘇ったような感覚を覚えました。旧家そのものの宅地部分が戦国期からの城館跡なのですが、南側と東側を中心とした遺構の残存状況は想像以上に良好であり、単郭方形の重厚な堀跡と土塁が綺麗に残存していました。このため少し前まで引きずっていた重い足取りはすっかり影を潜め、東側の市道から拝見している最中に、北よりの風に乗って粉雪の粒をもたらしましたが、それさえも心地よく感じられたほどでした。なお同城跡には現在も大原氏後裔の方ががお住まいになっていらっしゃるようですので、余りウロウロとせずになるべく離れた地点から拝見するように心掛けました。
( 2018/1/26 )記述
大原城遠景 
大原城遠景 −画像A−
( 2017年12月11日 撮影 )
 城跡の南方向から撮影したもので、土塁や堀跡が現存する主郭部は画像中央やや左上に所在し、その右下の部分の民家宅地部分なども城館と関連する屋敷跡の区画であったのかも知れません。

大原城 
大原城 −画像B−
( 2017年12月11日 撮影 )
 「甲賀市史第7巻」の記述では、画像右端の門が所在している辺りを虎口跡と推定しています。画像左側の区画は「画像2」の場所と同じものです。

大原城 
大原城 −画像C−
( 2017年12月11日 撮影 )
 東側から土塁と堀跡を撮影したもので、この東側土塁の高さは堀底から4m以上はあることから非常に壮観な印象があり、堀跡の手前の駐車場のような個所も以前は堀跡であったようにも思えました。

訪城アルバム
凸1 杣川からの遠景
 城跡の西側を北流している杣川西岸付近から城跡を遠望したものです。画像中央やや上のこんもりとした屋敷林が大原城の主郭部に相当します。

凸2 方形地形
 主郭南西部に接した方形の基壇で中央部はやや低くなっていることから土塁囲みの地形であった可能性も想定されます。大原同名中に含まれる一族などの屋敷跡の名残なのでしょうか。

凸3 南側の土塁
 画像Bの正面に写っている土塁を東側から撮影したもので、長さは約30mほどで高さは最大2mくらいです。なお「画像2」の方形地形はこの画像の左側に接しており、その間は堀跡状の細長い窪地となっています

凸4 南東側の土塁
 主郭の南東には2か所の土塁の切れ目が存在していますが、「甲賀市史第7巻」では後世の通路による破壊跡として虎口としての評価には慎重です。しかし左側の土塁がやや前方(東側)にせり出している様子が窺えることから気になりました。

凸5 東側から
 日が差したと思えば雲がかかり強風が吹きぬけて粉雪が舞うというような変わりやすい空模様のため、やたらにデジカメの設定変更が慌ただしかったことを克明に記憶しています。

凸6 北東方向から
 北東側から拝見いたしますと北側(画像右端)に土橋状の地形が確認されますが、「甲賀市史第7巻」によりますと後世の地形改変の可能性を示唆しています。また、同書によりますと画像右寄りの土塁北東隅には鬼門に当たることから祠が祀られているそうです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)一覧表のみの記載
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)記載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)記載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)記載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版) コースガイド記載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻第7巻、第8巻」(/甲賀市)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
なし


更新記録
・2018年1月26日 HPアップ
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