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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字月輪字大堀1586番地ほか
歴史と沿革

委細不詳の大規模な堀跡
 「滑川村史」および「新編武蔵風土記稿」などによれば、その歴史は殆んど不詳であり、九条兼実あるいは月輪某の居館との口承があるとのことですが、それらを裏付ける資料は発見されていないとのことです。「埼玉の城館跡」では別名「大堀」、地元では「百間堀」と呼ばれています。
 現状の堀跡としての残存状態から推定すれば、その後時代は遥かに下って戦国時代には在地領主の館として使用されていたものと考えたほうが無難かもしれません。

確認できる遺構
空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

周辺には開発の波が
 松山台地の上にあり殆んど平坦な地形である。新設された「つきのわ」駅の東南東800mの位置に所在。北900メートルの位置を杉山城の麓を流れる市野川が、南1500メートルを都幾川が流れています。また西2.3キロメートルには菅谷館が所在しています。なお、北200mには関越自動車道が、南400mを国道254バイパスが通過しています。2本の幹線道路に挟まれ奇跡的に残されたというよりも、実のところ東側に東松山工業団地がありもこれが大きな壁となって残されたという印象です。
 「滑川町史」によれば単郭で南を除く三方に掘跡が残されているとのことです。これによれば東側の幅約6m、深さ0.5m、延長約150メートル、北側は幅約5m、深さ0.5m、延長約200m、西側は幅約5m、深さ1メートル、延長約150mの規模とされています。

文化財指定
訪城年月日
2004/09/30 2006/07/22
訪城の記録 記念撮影

( 2004/09/30 )
押し寄せる開発の波
 この近辺の訪城は全く初めてであり、土地勘も全くありませんでしたが、だんだんとそれらしい雰囲気を感じるようになったせいか、迷うことなく直行に成功。ごく普通の平地の杉林の中にあり、表からは非常に見づらく分かりにくいことは確かかと。
 車の通り抜けは困難な林道の入口付近に駐車させていただき徐に探索へ。右手にいきなり堀跡を発見。しかし同時に不法投棄されたU字溝の残骸も発...。堀跡はそのまま真直ぐに北へと伸びており道の向こう側はすでに宅地化されている模様。
 堀の幅は約5m、深さは思ったよりも深く1メートルから1.5メートル以上あるところも残されている。突き当たりに近いところに朽ち果てた小さな祠が傾いて打ち捨てられていました。この場所から堀跡は右手つまり東側に曲がるところまで確認。ただ、その部分より東側は堀自体は0.5mもないような非常に浅い状態になっており、遺構をトレースするのが難しい状況。土塁についてはあるようなないような趣で、所々に微妙な高まりは確認できるものの、明確な土塁跡として判断するのは難しい印象。
 度重なるやぶ蚊の攻撃によりあちこち数箇所は刺されたので、あまりの痒みのためこれ以上の探索を断念して車へ退避したものの、最後まで執念深くしっかりと2匹がついてきました。全体として結構大きな平地林で人気も殆んどなく、あまり遅い時間の単独での訪城はお勧めできない環境かと。川越市の大堀山周辺と同様に、一体誰が何のために.......という疑問が生じる巨大な堀跡の遺構です。ただ駅に近いこともあり宅地開発の波に抗って、いつまで現状を保持できるのか非常に危うい感じが漂っていました。

( 2006/07/22 )
遺構との感動的な再会
 家内の運転で江南町の県立病院に入院中の親類の病気見舞いへ。その途中で約2年ぶりに滑川町の「月輪館」(別名を「大堀」「百間堀」とも)に寄り道を。この間付近を通過したときに駅に近い地理的条件のため、北側の宅地開発がかなり進行している印象があったので遺構の残存状態に不安がありました。
 ある程度の遺構の消滅が懸念されたものの、平地林の中に所在している南北方向に延びている延長およそ80m以上、幅2間から3間、深さ1mから1.5m程度の堀跡そのものは以前同様に健在で、改めて2年ぶりの感動的な再会を果たしたのでありました。
 しかし、時節柄薮蚊の大群にも再会。、ある程度予想はしていたこともあり、長袖のシャツを着用。しかし敵は顔面を集中攻撃してきたので、合計10個所以上の被害に遭遇。それでも小雨にぬれた蜘蛛の巣を払いながら周囲を20分ほど探査。2年前と同様に南北方向の堀跡以外に明確な遺構が確認できず、やはりいずれ11月下旬頃に予定している再再訪城館リストに追加しておくことに。

 

月輪館の遠景
「月輪館」の遠景
( 2006/07/22 撮影 曇り)
訪城アルバム
■1■堀底から( 2004/09/30 撮影 晴 )
 うーん、こうしてみると単なる雑木林にしか見えない....(^^; 堀底から撮影しているので杉と杉の間の空堀の斜面が分かるような分からないような。このあたりは堀跡のほぼ中間地点だったと記憶しています。
■2■やはり堀底から( 2004/09/30 撮影 晴 )
 蜘蛛の巣をかき分け堀底に突入。この辺は北側の先端に近い部分で堀の深さは自分の背丈(178Cm)と同じくらいありました。向こう側の空を見れば晴れていて明るいのが分かりますがが、曇りの日ではかなり鬱蒼とした雰囲気となると思われます。おまけに近くに墓地もあるという話しで....(^^;
■3■西側の空堀の北端付近
 2年前に既に朽ちかけていた小祠がしぶとく傾いたまま現存していました。この日は梅雨空の曇天で辺りはかなり薄暗くとても陰気な澱んだ空気が漂っていました。しかしこの2年間の間、人里離れた山城なども含めて県内の300ヶ所ほどの城館跡をうろついてきたお蔭で、体力的には大きく減退してきましたが、多少のことには動じなくなってきたようです。               ( 2006/07/22 撮影 曇り)
交通案内

・川越方向からの国道254線からは、東松山工業団地西端の「月輪」の信号を右折して直進。信号をひとつ過ぎると右側に「フジミ工研」という大きな工場があるので、その反対側の幅員4メートルぐらいの細い道路を左折して直進。道がクランク状に曲がる手前の右側の杉林をよく見ると幅2mに満たない未舗装の踏み跡のような道があり、この道に沿って南北方向に堀跡が確認できます。(追記 以前は地図サイトとリンクしていなかったのでこんな説明をつけていました)
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡月ノ輪村の項に「月輪某」に関するの伝承と、小名として「大堀」「中丸」などの地名が記されています。
■武蔵志
 月輪村についての略述のみで堀跡など館跡についての記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史」(1984/滑川村編集発行) 

・2004/10/06 HPアップ
・2006/08/20 HP画像追加、記述追加訂正

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