城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/27の日記 金崎殿館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合24
所在地
埼玉県秩父市小柱101
歴史と沿革

秩父平四郎行高の居館
 「秩父志」の小柱(おばしら)村の項には、
「此村名義は秩父庄司の旧地にして大淵村にも隣て此村の内に八幡の祠あり、故に小柱と称るなるべし。此村の内に秩父八幡宮の社あり。通路の傍にて皆野村大浜より吉田村小鹿野へ通う道なり。是は庄司の霊を祭るなるゆえに秩父八幡と号するならん。今その鎮座慥(たしか)ならねども畠山二三世ノ霊なるべし。」と記され小柱の地と秩父氏、畠山氏との関わりを示唆しています。。
 また、秩父郡大田村の富田永正が嘉永6年(1853)に著した「北武蔵名跡志」の小柱村の項では、
「土人秩父殿の森と称す八幡宮あり。古城跡もある也。武蔵七党系図児玉党、平児玉経行の子秩父平四郎行高住の地なるべし。其男(子)大淵(大淵氏)なれば也。」と記され、この古城跡(館跡)が秩父平四郎行高の居館であったことを明言しています。別名を「小柱館」「釜屋敷」とも。
 こうしたことを受けて、「皆野町史 通史編」では、この館跡が丹党の勢力拡張に対抗した秩父平氏と児玉党の提携による平姓児玉党一族のものであるとしています。また土塁・空堀の跡などが確認できないことから未完成であり、館としての歴史は短命であったとの可能性も示しています。
 また「新編武蔵風土記稿」では小柱村の小名として「堀之内、矢来瀬、殿浦」の地名が記され城館に関わりの深い土地柄であることが推定されているようです。
 

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川と赤平川が合流する地点の南側の河岸段丘上に所在し、また西側には篠葉沢、南東には蒔田川が流れ南側には南北に細長い丘陵地帯で囲まれるという立地条件で、自然の要害に囲まれた土地柄となっています。東西300m、南北200mの河川で囲まれた区域が館跡の範囲であると思われます。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/27
訪城の記録

( 2006/02/27 )
シシ垣か土塁跡か 
 荒川と赤平川が合流する地点に所在する城館跡で、赤平川の流れている北辺部分の崖の高さは軽く30メートルほどはあり、ものの見事に切り立った地形のため枯れ草のある崖の縁でうっかり体のバランスを崩すと真っ逆さまに落下していきます。諏訪城の時もそうでしたが、まさに自己責任ということなのか、転落防止などの設備や注意書きなどの類は全く見られません。もっとも秩父地方ではあちこちにこのような断崖があるので、とてもその全てに安全施設を設置することなどはは事実上不可能なのかとも思われました。
 さて、館跡といわれている個所は、諏訪神社や薬師堂そして琴平大権現などの祠が存在するほかは大半は畑や宅地となっていました。また一部ですが土塁の名残のようなシシ垣と思われる石塁が散見されるものの、確実にそれと分かるような明確な遺構は存在していません。帰りがけ地元の方がいらしたので、ご挨拶をしたところ「何の調査ですか」との質問が。即座に「神社やお寺のことを調べています」と回答。たしかにそういう側面もあるわけで、やはり経験的にはこれが一番理解されやすい説明のようです。

記念撮影




 東の荒川方面は現在河岸段丘の中腹を県道44号線が通過しているために段丘の地形は大きく改変されているようです。しかし館跡の北側を東流する赤平川沿いは、このように深さ30m近い断崖を形成していました。

( 2006/02/27 撮影 曇 )
訪城アルバム
■1■皆野橋からの遠景
 橋の先端に見えるの丘陵地帯が館跡と推定されているようです。「新編武蔵風土記稿」の記述によれば長さ30間、幅4尺の土橋を皆野村と共同で築造し互いの交通の便としていたとされていますが、増水時期の夏・秋には通行できなかった模様です。北側の赤平川の方も同様ですので、まして中世においてはこの2本の川筋の存在は自然の要害以外の何物でもなかったと思われます。
■2■諏訪大神社
 信州の諏訪神社の分社と伝わる神社で主祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)。信州の諏訪神社といえばあの「御柱」の祭礼が有名ですが、「秩父志」にその地名の由来が記されているように、この小柱の地名は「御柱」に因んだものと考えられているようです。(現地の神社解説板より)ただし、「武蔵国郡村史」によれば「古時尾端村と称し、天正の頃小柱村と改称す」と記されています。これをそのまま解釈すればおそらく後北条氏が支配した時代に村名が変更されたということになるのですが。
■3■東側の荒川方面
 この段丘のすぐ下方を県道44号線が通過しています。「1」の写真の「館跡」の個所から皆野橋方向を撮影したもの。なお詳細な経緯は不明ですが近年において、「秩父八幡」はこの諏訪神社に合祀されているようです。
■4■諏訪神社裏の崖と赤平川
 社殿の裏側は高さ30mほどの文字通りの絶壁を形成していました。
■5■シシ垣か土塁か
 イノシシ除けのためのものと思われますが、川原石を積み上げた100m以上はあろうかという石塁です。
■6■薬師堂
 「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、かつては秩父氏所有と伝えられる古い鞍が収められていたとされる薬師堂と呼ばれる堂宇。
■7■石塁上の祠
 「皆野町史」では、児玉党に関わりの深い「金鑚権現」を祀る祠であるということが記されていましたが、この時の祠の中のお札には「琴平大権現」と記された真新しいお札が納められていました。「皆野町史 通史編」にはこのあたりを館跡の中心であると推定しています。
交通案内

・県道44号線沿い皆野橋信号の西側の河岸段丘上
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収 

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中