工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へmail 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
水野氏陣屋
関連ページのリンク  2005/08/06の日記  鉢形城               
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合30
所在地
埼玉県大里郡寄居町赤浜上寺西915付近
歴史と沿革

近世初期の旗本水野氏の陣屋との伝承はありますが
 「新編武蔵風土記稿」の男衾郡赤濱村の記述によれば、天正18年(1590年)秀吉の関東侵入により後北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入府した際に水野石見守長勝に知行したとされています。尾張出身の水野長勝は北条氏邦の家臣でしたが、北条氏の滅亡後徳川家康と従兄弟の関係であったため早くから旗本ととして登用され、赤浜に629石(現在の寄居町)と能増に170石(現在の小川町)を知行されたことが「昌国寺文書」に記されています。
 また「同稿」には、曹洞宗昌国寺は長勝が開基となり水野家の菩提寺となったことから、家康から寺領20石を拝領するとともに、蔵屋敷といわれる長勝の陣屋跡があったとの伝承を紹介しています。しかし正保4年(1647年)には2代目水野忠貞が伏見奉行・丹波郡代などの要職についたために当地を離れ一時幕府の直轄領となり陣屋は廃されたと考えられます。
 また、当地には後北条氏の時代に大久保氏(大窪氏)が居住し北条氏邦に仕え、後北条氏滅亡後は水野石見守忠貞に仕えた云々という旧家の伝承を記しています。このようにしてみると、おそらく戦国時代末期の後北条氏家臣大窪氏の館跡を水野氏が接収し陣屋としたと推定することができるように思えます。
 なお、昌国寺の手前に所在する同名のお宅はその系譜につらなるのかもしれません。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東西、南北それぞれ120mほどの方形の館跡で、とりわけ北辺と東辺の土塁空堀の保存状態がすばらしいと思います。西辺は本堂から墓への通路部分のため幅数メートルにわたり土塁が削り取られているようですが、北へ行くほど地面が傾斜しているという自然地形の比高差もありだんだんと空堀・土塁ともはっきりしたよい状態になります。南辺については西側部分に延長30m、高さ1mから1.5mほどの土塁と幅1.5間、深さ数十センチほどの空堀が残され、東部分でも延長30mほどの空堀などが確認できますが、残りの半分ほどは消失していると思われました。
 なお、北側500mには荒川が東流し河岸段丘が形成されています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「寄居町史普及版 寄居町の歴史」(寄居町教育委員会/1989編集発行)
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/08/06
訪城の記録

( 2005/08/06 )
旗本水野氏の陣屋跡というよりも戦国末期の在地領主の居館のような印象
 寄居町の資料などによれば徳川氏旗本の水野氏の近世初期の陣屋跡ということです。さて実は陣屋跡の所在する昌国寺の場所が直ぐに分からず付近を少しだけウロウロとしてしまいました。しかし、よくみれば県道からの入口には大きな大理石の石柱が建てられていますが白っぽいために見落としてしまいました。また、民家の両脇に2本ある路地がその入口なのですが、寺自体が民家の陰になっていることと、車1台分ぐらいしか通行できないような1間幅の広さのためやや分かりにくい場所となっています。自分の場合はくるまで走行しながら探したので分からなかったのですが、徒歩であればまず間違えるようなこともないと思われます。
 肝心の遺構の方については南側の空堀と土塁は残念ながら一部消失していますが、しかし残りの三方についてはしっかりと残されています。特に圧巻なのは北辺の空堀と土塁です。土塁の高さは内部でも2m以上あり、空堀の底から見ると3mを超える土塁と幅3間ほどの空堀がセットで東西方向に120メートルほど続いています。
 これで薮蚊と蜘蛛の巣がなければ堀跡をずっと歩くことができたのですが、数十センチおきに厳重に張り巡らされた蜘蛛の巣のバリアーと度重なる薮蚊の攻撃に即時撤退を余儀なくされました。この時はさらに間の悪いことに、体のあちこちに痒みを伴うアレルギー症状も出ていたため流石にあきらめざるを得ませんでした。
 寄居町の説明版によると、「新編武蔵風土記稿」の記述に従い「近世の陣屋跡」とされているようですが、その前身は実際のところ後北条氏などの家臣である戦国時代の在地領主の居館などを転用している事例も少なくないと思われます。さてこの場合は...

 このあと訪城予定のコースとなる国道140号線の交通渋滞も予想され、十数回は蜘蛛の巣に引っかかって非常に気持ち悪いこともあり、体のあちこちに痒みも出ているし、あまりの暑さに熱中症を発症しても困るので...などと勝手な理由をつけて本日の訪城を終了...(^^;

記念撮影


■北側の空堀と土塁
 落ち葉などが相当に堆積しているにも拘らず、薬研堀状の空堀の深さは館側で3m以上、外側で1.5m前後あり、このあたりの堀幅は上面で3間ぐらいはあります。また、館側の土塁の傾斜は写真で見ても分かるとおり角度にして45度程度はあり、木の枝に掴まらないととても上り下りができません。
 これで薮蚊と蜘蛛の巣さえなければ、スキップしながら空堀部分を半周できるのですが...
 
( 2005/08/06 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線男衾駅より徒歩10分少々 MapFan Web の案内図です  


( 2005/08/06 撮影 )

■推定樹齢400年以上の槙の大木が陣屋跡とされる昌国寺の向って右側の入口に屹立しています。
( 寄居町指定文化財 天然記念物 )
■「水野十郎左衛門一族の墓」と記された昌国寺境内前の文化財表示板で、この場所が館跡の南辺にあたります。なお、幡随院長兵衛を殺害したとされる旗本奴で著名な水野十郎左衛門成之(〜1664没)とは遠縁のようですが全くの別人です。
 この水野十郎左衛門は水野石見守忠貞といい、18歳で大阪夏の陣に加わり戦功を上げ知行7500国取の大身の旗本で大名役の伏見奉行・丹波郡代などを歴任し大和の忍海郡西辻村に陣屋を構えたもようで寛文10年(1670年)2月に没しています。 
 しかし、これ自体が文化財といってもよいほどの経年劣化がありありとにじみ出ていますなあ。( 寄居町指定文化財 )
■西側の土塁は高さ1mから1.5mほどで空堀も深さは約1m程度で、幅も上面で2間ぐらいしかありませんので、後世に外側から一部埋め立てられたのかもしれません。
 土地全体が手前、つまり北側の荒川方面に向って緩い傾斜がかかっています。
■土塁の北東角部分を館跡の内部からから撮影したものす。  当時よりも大分低くなっているように思いますが、このあたりでも土塁の高さは内側で1mから1.5mぐらいはあります。
■東側の土塁と空堀。このあたりの空堀の深さは土塁側で2.5mから3m弱、外側で1.5mほどありそれぞれ延長にして直線で100mほどの長さがあります。
■左側と概ね同じ位置から北方向を撮影したもの。当日は晴天でしたが、竹林を始めとして樹木が叢生し昼間でも薄暗く、デジカメのストロボ撮影に加えて画面の明るさの修正が必要となりました。
■向って右側が水野氏2代目の水野石見守忠貞のスケールの大きな宝筐印塔で、左側に3代から7代までの宝筐印塔が所在しています。
 この墓の周囲にも高さにして1mほどの土塁がめぐらされていました。
■初代の水野長勝墓石(左から2番目)、その母の墓石は右側の宝筐印塔で、両脇の五輪塔が長勝夫人と嫡男のものということです。水野家一族の墓所として寄居町の指定史跡とされています。
 なお、現地の説明の記された標柱によれば長勝夫人は森蘭丸の実姉とのことです。
 
工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中