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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2014年12月15日のブログ 妙顕寺城 本隆寺の構え
所在地
 京都府京都市中京区壬生賀陽御所町(みぶかようごしょちょう)
歴史、人物、伝承

本隆寺東隣の寺構え
 壬生川通四条交差点から見て南東市街地に所在し、北を四条通、西を壬生川通、南を綾小路通に囲まれた、おおむね東西約110メートル、南北約100メートルほどの方形の範囲と推定され、その中央部付近を嵐電嵐山本線の軌道が東西方向に走っており、おおむね東側は地下鉄四条駅、嵐電嵐山本線四条大宮駅に接している。
 壬生川通を挟んだ西側には本隆寺の構えが所在していたと推定され、標高約32メートル、比高差0メートルの市街地に所在し、天文法華の乱当時の寺構えのひとつとされているが、本隆寺の構えと同様に地表上に確認できるような遺構は皆無であって、また寺跡を含めた城跡関連の石碑・石柱の類いや解説板なども全く存在していない。
 立本寺の起源については、元亨元年(1321)に日蓮の弟子である日像により四条櫛笥に妙顕寺を創建したことに始まるが、同寺は比叡山との抗争により嘉慶元年(1387)に破却され、その後明徳4年(1393)将軍足利義満の寄進により押小路以南、姉小路以北、堀川以西、猪熊以東の寺地(⇒現在の中京区役所のある上巴町あたりか)を受けて妙本寺として再興されたが、応永20年(1413)ふたたび比叡山により破却を受けて5世日明は丹波地方へと逃れた。
 その後応永23年(1416)に法弟の日実が四条櫛笥(しじょうくしげ、現在地不明か)に本応寺として再興したが、日明は五条大宮に妙本寺(のちの妙顕寺)を再興し両寺は対立するに至り、本応寺は延暦寺の末寺に加わりこの際に立本寺と改称したとされている。
 天文5年(1536)の天文法華の乱により本隆寺と同様にその堂宇は焼失したが、その後同地に再建され、その後豊臣秀吉により寺町通今出川上ル立本寺前(⇒立本寺前町の地名が残されている)に移転し、宝永5年(1708)の大火により類焼したのちは上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町に移転し、現在は日蓮宗一致派総本山となっている。(「山州名跡志」⇒角川日本地名大辞典などより) なお、現在の同寺墓地には関ヶ原合戦で死亡したとされる島左近土葬の墓と伝わる史跡も所在するという。
 城郭関連資料としては、「京都市内およびその近辺の中世城郭−復元図と関連資料−」(京都大学人文科学研究所調査報告第35号/山本 正男/1986/京都大学人文科学研究所)、およびその先行的研究である「京都府中世城館跡調査報告書第3冊」(京都府教育委員会/2014)の2点をあげることができる。

確認可能な遺構
 石垣、土塁、小口、土橋、空堀、石柱、石碑
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2014年12月15日
訪城の記録 記念撮影

 濡れ手で粟のような
 中堂寺城から北へ向かい五条通を左折し次に壬生通に転じ、さらにこれを黙々と北上しやがて嵐山電鉄(地元の方では「らんでん」という略称があるようです)嵐山本線の踏切を渡る折に、西側に所在したとされる本隆寺の構えと同様に何の気なしに線路を記念撮影していました。なお、下記の画像の中央左奥あたりが大宮駅方面に相当します。
 しかしそのあとで京都市中央図書館で閲覧した「京都府中世城館調査報告書第3冊」の記述によりますと、踏切の両側2個所ともが中世寺院の寺構え跡ということが判明しました。
 とくに京都市内では、武士により占有され寺構えが城館となった場合あるいは占有主体寺院のまま城郭化された場合あったりして、そもそも寺院と城館の判別が難しくなっているというか、元来区別すること自体が歴史的に不自然なのかも知れないとあらためて感ずるに至りました。
 なお、上記報告書は貴重かつ大変な労作なのですが、人名と暦年に関して一部誤記が散見されますことがやや残念に思いました。
 なお、歴史的に有名な織田信長が横死した本能寺跡はこの地点から直線で北北東へ約600メートルほどの地点、近世の二条城は同じく北方約2キロメートルほどの地点に所在しています。

( 2015/11/12   記述 )
立本寺の構え ⇒ 画像クリックで拡大します
立本寺の構え
( 2014年12月15日 撮影 )
交通案内

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いつもガイド の案内図です
 いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「京都府中世城館跡調査報告書第3冊」(京都府教育委員会/2014)
「京都市内およびその近辺の中世城郭−復元図と関連資料−」(京都大学人文科学研究所調査報告第35号/山本 正男/1986/京都大学人文科学研究所)
「京の城−洛中・洛外の城館−」(京都市文化財ブックス第20集/2006/京都市文化市民局文化財保護課)
「日本城郭大系11京都・滋賀・福井」(1980/新人物往来社)
「図説中世城郭事典2」(1987/新人物往来社)
「近畿の城郭1」(2014/戎光祥出版)
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社))

■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「角川日本地名辞典 26京都府」(1982/角川書店)
「日本の時代史 12戦国の地域国家」(2003/吉川弘文館)
「日本の歴史 8戦国の活力」(山田邦明 著/2008/小学館)
「戦争の日本史 11畿内・近国の戦国合戦」(福島克彦 著/2009/吉川弘文館)
「だれでも読める日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「日本史人物辞典」(2000/山川出版社)
「図説 歴史で読み解く京都の地理」(正井泰夫 監修/2003/青春出版社)
「日本史が面白くなる地名の秘密」(八幡和夫 著/2013/洋泉社)
「京都まちかど遺産めぐり」(2014/ナカニシヤ出版)
「京都府の歴史散歩・中・下」(2011/山川出版社)
「信長が見た戦国京都」(2010/河内将芳 著/洋泉社)
「京都・観光文化時代MAP」(2006/光村推古書院)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収

■その他
オフィシャルサイト「京都観光ナビ」
「京都市考古資料館」のサイト
「京都府立総合資料館」のサイト
市公式HPなど

更新記録
・2015年11月12日 HPアップ
・2019年 6月27日 画像ズレ補正
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