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京都府京都市の城館索引へ戻る 本能寺跡石碑 本能寺跡のバナー 本能寺跡の石柱
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ
所在地
 京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町付近
歴史、人物、伝承

信長の油断
 天正10年(1582)6月2日に織田信長の常宿のひとつであった本能寺に明智光秀の軍勢(約1万3千とも)が急襲し、衆寡敵せず信長は火を放ち自ら自刃したという。「信長公記」など当時の記録によれば、この時信長につき従い討死を遂げたものは厩番の24人と御殿の27人の合わせて51人であったとされている。
 また妙覚寺に宿泊していた嫡子織田信忠は、本能寺の急を聞いて駆けつけてきた京都所司代村井長門守貞勝の進言に従い、妙覚寺の東側に所在したより堅固な二条御新造に引き移って守りを固めた。一時は馬廻衆の活躍などで善戦し明智軍の攻撃を持ち堪えたが、衆寡敵せず敗北自刃して二条御所は灰燼に帰したという。
 明智光秀の謀反については、近年様々な勢力を背景とした黒幕・陰謀説なども存在しているが、何れも有力な史料を欠く傾向があるものと思われる。また光秀による京都制圧の期間も短いことから、関係する同時代史料も少なく事件の動機・真相は不明といわざるを得ない。
 甲斐武田氏を滅ぼしたものの、中国毛利氏、越後上杉氏、四国長宗我部氏に対する攻略を着々とすすめる信長の戦術・戦略に大きな齟齬・油断のあったことは否めないものと考えられる。またその当時における本能寺の所在地の問題等を含めて様々な謎に包まれた歴史的事件であった。

確認可能な遺構
 石柱、石碑
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日 12時55分から13時05分
訪城の記録 記念撮影

 本能寺の変の舞台
 かの有名な事件の現場とされ、京都市内では最も最初に訪れたかった史跡でもありました。無論周辺一帯は宅地化されて、遺構などの存在は皆無です。
 また所在地については町名(元本能寺町、本能寺町)などから旧本能小学校付近が推定されていました。しかし近年の調査研究によりますと石柱が建立されている個所からは道路を挟んだ北側の一帯で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視されているようです。

 往時には東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられますが、何れにしても周囲はほぼ平坦な地形を形成していることから、堀や土塁などの人工的な防御施設だけが頼りとされていたことが窺えます。
 旧本能小学校(現堀川高校・介護施設)の周囲には石柱(北東角)、石碑(西側校舎脇)が各1か所設置されておりました。寺院跡地とはいっても、著名な事件に関わる史跡としてはやや寂しい印象もえませんでした。

( 2011/04/17 )記述
本能寺跡の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
本能寺跡の石碑
( 2011年4月12日 撮影 )
訪城アルバム
北東角の石柱 ⇒ 画像クリックで拡大
掲示板
凸1 北東角の石柱城
 旧本能小学校(堀川高校本能学舎・介護施設)北東角に設置されている石柱で、「この付近本能寺址」と刻まれております。近年の調査研究では、この石柱から見て右側(北側)の宅地一帯が有力な本能寺跡地として捉えられている模様です。
凸2 掲示板
 「元本能寺」の町名が記された京都市の広報掲示板。  二条城のライトアップなどのポスターが貼り出されておりましたが、有名な近世の二条城は南東櫓を遠方から一瞥しただけに止まってしまいました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図 (※旧本能小学校北東に所在する石柱の位置を示しています)

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「お城の地図帳」(2010/辰巳出版)

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研)
「謎解き本能寺の変」(2003/藤田達生 著/講談社)
「信長は謀略で殺されたのか」(2006/鈴木眞哉・藤本正行 共著/洋泉社)
「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)
「織田信長合戦全録」(2002/谷口克広/中央公論社)
「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「天正壬午の乱」(2011/平山優 著/学研)
「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)

■史料
「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社)
「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)
「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)
「川角太閤記」(1996/志村有弘 訳)/勉誠社
 藤本正行氏の指摘によれば、明智軍1万3千の唯一の典拠であるという。

■その他
各市町村公式HPなど

・2011年4月17日 HPアップ
・2019年6月26日 画像ズレ補正
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