茨城県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 茨城県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動

素人 の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願いま す。

茨城県竜ケ崎市の城館索引へ戻る 登城山城 登城山城 登城山城の空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/28のブログ 長峰城 大日山城
所在地
 茨城県龍ヶ崎市半田町字登城
歴史、人物、伝承

土岐氏の勢力下
 長峰城の東北東約600m、大日山城の西約800mの舌状台地南端部に占地している。
 その遺構の状態などから戦国時代末期まで城郭として使用されていたことが窺われ、当時は土岐氏の勢力範囲であることからその家臣である何某かが拠っていたものと推定される。
 近世に記された文書ではあるが、「土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書」(「諸岡文書」)では、半田九良左衛門の名が、家来の諸子として記されている。また同様に、「土岐氏旧臣人数注文」(「石引家文書」)には半田村北澤大蔵の名が旧臣として記されおり、これらの人物との関連も窺われる。

確認可能な遺構
 郭、土塁、空堀、土橋、腰郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月28日 9時40分から10時40分
 2009年1月10日 再訪
訪城の記録 記念撮影

 延元2年(建武4年、1337)に創建されたと伝わる天台宗満願寺の境内を含む舌状台地の南端部を中心にして、土橋を含む堀切、土塁、郭(主郭)、腰郭、竪堀、小口とひととおりの遺構が現存しています。とりわけ土橋と堀切・土塁が残る台地南部についてはは、コンパクトな城域ですが良好な遺構が遺されておりました。
 ただし寺院境内の各所に所在している土塁状地形については、寺院の境内という事情から庭園跡などの要素も否定できませんが、寺院の創建の年代自体にも一抹の疑問が感じられます。  

( 2011/10/14  記述 )

登城山城の全景
登城山城の全景
( 2008/12/16 撮影 )
訪城アルバム
西側の堀跡
東側の土塁
凸1 西側の堀跡
 城跡および天台宗満願寺へと続く細道で、一見すると堀底道のようにも見えますがその詳細は不明です。城道(大手口)の存在も分かりづらく、天台宗満願寺の建立時期の寺伝などに疑問が湧いてきます。
凸2 東側の土塁
 満願寺境内東側に存在している土塁状の地形なのですが、関連資料では土塁としては認識されていないようですが、下段に所在する腰郭との関係で見る限りでは土塁と判断するべき構造・機能を有しておりました。

空堀
土橋
凸3 空堀
 主郭北東部を外部の台地続きから隔絶する空堀遺構で、深さ約3m、幅約12mほどの規模を有しています。
凸4 土橋
 左記の画像の空堀を繋ぐ主郭の小口部分へと続く土橋で、画像右側の主郭部分の方が高くなっいてます。 

小口
郭
凸5 小口
 主郭内部より撮影した小口と土塁で土塁の内側の高さは約1.5mから2mほどを測ります。主郭内部は概ね万遍なく削平が施されていました。
凸6 
 主郭東側の2段下に所在する削平地で、「図説茨木の城郭」では、その広さと日当たりなどの条件から城主の館跡を想定しています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

・2011/10/14 HPアップ
・2019/06/15 画像ズレ補正
トップ頁へ 茨城県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動