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茨城県竜ケ崎市の城館索引へ戻る 長峰城 長峰城のバナー 長峰城遠景
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/16のブログ 屋代城 外屋代城
所在地
 茨城県龍ヶ崎市白羽3丁目長峰東公園内(旧長峰町字竜ケ井)
歴史、人物、伝承

土岐原氏家臣長峯氏の居城か
 外屋代城の東方約1kmに所在する台地上の先端部に占地し、城跡一帯には「要害」から転訛したと推定される「竜ケ井」の字名が伝わっています。
 近世に作成されたと思われる「土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書」(「諸岡文書」)によれば、長峯民部という武士が長峯村に居住していたことが記されており、長峯氏の居城或いはその城代であった可能性が推定されますが、現在長峯姓の家名を継承している家は存在していないといわれています。(「龍ヶ崎市史 中世編」より)
 近年の公園整備により遺構の一定部分が消滅していますが、主郭部とその北側の2段の腰郭、2の郭、段築状の家臣団屋敷跡などが残存しています。
 また1986年から1988年にかけての発掘調査により城跡の西隣の「宿」と呼ばれる字地が駐屯軍の宿営地であったことが示唆されています。なおこの点については大永3年(1523)の「屋代要害の合戦」との関係も想定されますが、これについてはあくまでも管理人の憶測の域を出るものではありません。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、郭、塚状地形(土塁)、家臣団屋敷跡など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月16日 16時05分から16時40分、2009年1月10日再訪
訪城の記録 記念撮影

 訪れようとしたときには西側にぶ厚い雲があり、すでに事実上の日没時間でありました。とはいえ城跡は車で5分ほどの至近距離。しかし都市公園化されいるという情報のため、遺構の位置確認に難航することも予想されました。無論後日に順延という方法もなくはなく。然し往復の所要時間5時間20分という事情を天秤にかけて調査を敢行しました。
 結果としては、まず全体の3割ほどに相当する南西部分は宅地開発のために消滅した模様。一の谷と呼ばれる付近も工場が建設済みで残りの部分も造成が進行中。確実に残存していそうなのが主郭とその北側の2段の腰郭付近。その他には家臣団屋敷跡と推定される個所の段築、その西側に所在する帯郭、ほかに物見台状の盛り土が2か所ほどというような具合でありました。
 公園整備に伴い遊具設置、駐車場工事、芝生敷設等によりかなり元の地形が変貌している印象が窺えます。僅かな日没後の薄明かりを頼りにギリギリまで粘ってみたものの把握できたのはこの辺りまでという次第です。
 本来の予定では、このあと龍ヶ崎市、牛久市の図書館へと立寄り茨木県南の関係資料収集を徹底的に行う心積もりでした。しかし朝方の体調不良という経緯もあり、途中で夕食を摂り大人しく往路をそのまま戻り速やかに帰宅したのでありました。  

( 2011/10/9  記述 )

長峰公園入口
長峰公園入口
( 2008/12/16 撮影 )
訪城アルバム
主郭付近
推定「2の郭」付近
凸1 主郭付近
 2段の大規模な腰郭を備えた主郭付近の様子ですが、。土塁の痕跡は殆ど見られず、このような木柵で防御されていたのでしょうか。
凸2 「2の郭」付近
 塚状の地形が散在する「2の郭」付近の地形で、浅い空堀跡を通じて主郭の西側に隣接しています。

塚状の地形
遠景
凸3 塚状の地形
 土塁にしては余りに断片的であり、物見台にしては低すぎる塚状の地形です。
凸4 遠景
 北側の水田地帯から見上げた遠景で、水田面からの比高差は最大約25mほどを測ります。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

・2011/10/09 HPアップ
・2019/06/15 画像ズレ補正
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