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茨城県つくばみらい市の城館索引へ戻る  塙北側の遺構 塙北側の遺構 塙北側の遺構
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/07のブログ 板橋城 小張城
所在地
 茨城県つくばみらい市南太田字塙
歴史、人物、伝承

消去法で
 「伊奈町史」の記述においても、あくまで三条院城付近に所在し地形的に城郭的要素を有することから遺構としての可能性があることを示唆しているだけのものに過ぎません。
 まず自然地形ではないことの証左としては、概ね3段程度の渦巻状の平場(郭)を有し、北辺と東辺に高さ2m前後の明瞭な切岸状の地形を伴うことでありましょう。もしも仮に直線状の畑の段差であるとするならば、小規模な自然の断層或は畑の客土等の耕地整備が想定されますが、当該地形の現状は一般的な農地として利用するにはまことに不向きな地形であるものと考えられます。
 次に農耕に伴う民間信仰の竜神を祀る小祠を安置するためだけの土木工事としては、一般的に見て約30m四方という規模を必要とするとは考えにくいものがあります。
 なお遺構の名称として「図説伊奈町史」では「三条院城南東の遺構」と記載していますが、拙サイトではその所在地要素を明確にするために「小字名+方角」を考慮して標記のように呼称いたしました。

確認可能な遺構
 土塁(郭)、切岸
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月7日 11時45分から12時00分、2009年1月10日再訪
訪城の記録 記念撮影

 謎の人工地形
 三条院城の南東約500m、伊奈東中の南南東150mほどの畑の一角に高さ2mほどの段築状の地形が所在しています。民間信仰の竜神を祀った最上部には小祠が所在していることから、周囲が雑草に覆われているようなこともなく観察には最適の環境であります。
 とはいえ委細不明の反時計回り渦巻型の段築遺構。「伊奈町史」でも中世城館関連遺構としての可能性を示唆しているだけに過ぎず正に正体不詳のミステリアスな地形。ことによると土浦の航空隊との関連で、戦時中の高射砲の陣地である可能性は...などとの憶測も。 尤もそれならば地元の年配の方々がご存じのはずかとも。また高射砲陣地の場合には爆撃、銃撃を防ぐため平地林等の遮蔽物が必要で、かつ半地下方式に掘り込むのが一般的なはずで。 なお、周辺にはこれ以外にも2か所ほどの謎の段築が存在し、こちらの方はさらに一層不明の要素が強く...(苦笑
 余談ではありますが、大河ドラマや時代劇のロケーション地として利用される「歴史公園ワープステーション江戸」はこの東方800mの地点に所在しております。ただしその東側には南北方向に2km程の長さを持つ浅い浸食谷が刻まれていることから、南端部の戸崎・戸茂を含め久保、塙の集落についてはこの塙北側の遺構にが防御線となるという地理的要素を内包しているようにも思われます。

( 2009/01/26 記述 )
塙北側の遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
塙北側の土塁遺構
( 2008/12/07 撮影 )
訪城アルバム
塙北側の遺構(北西角付近の様子) ⇒ 画像クリックで拡大します
塙北側の遺構(南側から) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北西の角付近
 この部分が最も段差が大きく畑との比高差は2.5mほどを測ります。
 なお遺構の名称候補で不採用にしたものとしては、
「南太田の遺構」(⇒近世の村名、大字名のため余りにその範囲が広すぎる)、
「鹿島神社南東の遺構」(⇒直線距離で約300mほど離間し、かつ遺構との関わりが希薄)、
「竜神砦」(⇒どことなく詐称のような趣が)、
「伊奈東中学校南東の遺構」(⇒分かりやすいけれども冗長すぎるような)などを考案してみました(苦笑)
凸2 南東方向から
 東側も北側と同様に人工的な切岸が施され、その比高差はおよそ2m前後で長さ30m以上の塁壁が続いています。
 また憶測の域を出るものではありませんが、東側から北側にかけては小川が流れる低地となっていることと合わせて、現状の地形からは北側に所在する板橋城および三条院城が所在する台地続き方面を意識した地形を形成していることも窺えます。しかし隣接する三条院城の付属施設と想定するには後方に下がりすぎているようにも。
 

塙北側の遺構(北東角付近) ⇒ 画像クリックで拡大します
西側の畑の段差 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北東角付近
 「凸1」の部分を東側から撮影した画像で、奥の方の先端部分が数十センチほど高く形成されていることが分かります。
 なお直接の関連性は不明ですが、この北辺の切岸のラインと、右側の「凸4」の段差地形のラインが台地の北部に対して概ね同線上に位置しております。
 「伊奈町史」が示唆する小規模な砦跡と仮定しても、現状の切岸の高さでは明らかに防御施設としては不十分極まりなく少なくとも3m以上は欲しいところです。
凸4 西側の畑の段差
 この畑の中の段差もとてもよく目立つ地形で、延長約60m、高さ約2m前後の規模を有し緩やかな等高線と交差し土塁遺構の部分と共に北側を意識した地形を構成しており、この地域の戦国期の城郭は概ね小貝川の舟運に大きく依拠しているようですので、本来は一体のものであった可能性などはないものでしょうか。
 また更にこの他にも折を有する篠竹の微高地なども所在し、これ以上穿鑿を始めますと当分の間この問題から脱出不可能な状態に陥る恐れがあり、取敢えずは断層もしくは後世の形質変更地形として無理矢理納得を。
交通案内

・字塙の集落の中心部から150mほど北側の畑に所在

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
なし

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)、「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■史料
なし
■その他
なし

・2009/01/26 HPアップ
・2019/06/14 画像ズレ補正
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