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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/16のブログ 柴木戸 妙見館 片平鹿島館 富田向館
所在地
 福島県郡山市片平町字見物檀(※あくまでも分布図などに表記された位置から推定)
歴史、人物、伝承

所在地等に関するいくつかの疑問
 この城館跡に関しては所在地を含めいくつかの錯誤や疑問があることから下記に纏めてみた。

(1)「郡山市高田町」との所在地表記
 この所在地に関する住所表記については、 「まほろん」(福島県文化財データベース)「郡山市埋蔵文化財包蔵地データベース」のいずれもが、「郡山市高田町字瓜坪舘」と表記している。しかし、郡山市内には手持ちの資料も限られており管見の限りでは「高田町」という町名はその存在を確認できなかった。そこで仮に考えられるのは文化財台帳から転記する際などに、「富田町」を「高田町」として誤読ないしは誤植した可能性が想定されるのかも知れない。そして、おそらく先発のデータベースであると考えられる「まほろん」の表記に関して、後発のデータースである「郡山市埋蔵文化財包蔵地データ ベース」がそのままに踏襲したという可能性が高いのではないだろうか考えられる。この所在地表記に関しては「福島県の中世城館跡」に記されたものが正しいように思える。ただし、当該報告書作成時点では「字瓜坪舘」は既に喜久田町に含まれていることから、「富田町字瓜坪舘」という所在地表記には誤りがある。したがって、両データベースに記された「郡山市高田町字瓜坪舘」という表記は2重の錯誤となっている可能性が考えられる。

(2)字「瓜坪舘」について
  一方、字名である「瓜坪舘」そのものは、元来は「富田町」の領域に含まれていた。しかし1954年の市町村合併の際に「富田 町」はその多くが郡山市に、その一部が喜久田村へと分かれた。このことにより現在もその喜久田村に「字瓜坪舘」の名称は現存しているという状況にある。なお、明治初期時点の状況で編纂されている「小字一覧」(「角川日本地名大辞典7」)には、当然ながら以前の 区分であった「富田町」に属するように記されている。
 また「富田ふるさと町史」の記述によれば、富田八舘のひとつでもある「瓜坪舘」が、「字瓜坪1」(※「字瓜坪舘」ではなく)に所在していたという旨(※「相生集」などの近世地誌の引用)が記されており、仮にこの記述内容が正しければ別途「字名の相違」による所在地の誤認という問題も生じてくる 。

(3)分布図等へのマーキングについて
 前記の二つのデータベースは共に地図に示されたマーキングの位置については、現状の行政区分によれば、どう見ても「郡山市片平町字見物檀」 の範囲に含まれているものと考えられる
 この点については、そのマーキングされている位置は本来は正確であった。しかし元来片平町の境に位置しており、所属の変遷が目立った下伊豆 島にも近く、富田から喜久田へと区分が変わるという市町村合併による区分の変遷などの事情も加わり、さらに新たに待池台などの新しい町名も成立した。それに小字区分の分かりにくさの事情なども加わり、結果的に誤った所在地表記となっ たのか。あるいは元々マーキングされた位置が誤りであり、本来の所在地とは異なっているのかの何れかなのであろうと考えられるがどうであろうか。
 尤も仮に後者の場合には少なくとも「字瓜坪舘」ないしは「字瓜坪」の範囲内でその所在地を吟味するという必要性が 求められてくる。また「福島県の中世城館跡」に記されたマーキングについては縮尺精度が荒いために微妙な所在地の判断材料としては不向きである。

「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)の記述によれば、「里老伝に城主不知、」とされるが、「富田ふるさと町史」(2004/郡山市・富田町合併50周年記念事業実行委員会)の記述によれば、富田八館のひとつとされ館の別名を六郎兵衛舘、権之丞舘ともいい、柳田六郎兵衛師秀の5世(五代後裔)柳田六郎兵衛宣秀が天正年間に居住した(※「相生集」の伝承引用か)との記述が見られるがその詳細は必ずしも明確ではない。

確認可能な遺構
 なし(丘陵上の水田)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月16日 
訪城の記録 記念撮影


 この場所で良いものかどうか・・・
 「積達古館弁」によれば「館名」のみが記されているものの、「里老伝に城主不知」とのみ記され築城者、館主の何れも不明とされています。 尾根続きの西側を除いた三方が小河川などにより囲まれた丘陵東端部に占地していますが、1948年3月撮影の航空写真においても概ね平坦な耕作地が確認できるのみで遺構に関連しそうな堀跡などの痕跡さえも窺い知ることはできません。 現在は概ね水田として耕作されており、果たして本当にこの地点が正しいのかと疑問にさえ思われる場所ではありました。 むしろ西方の見物檀に所在するひな壇状地形の見事さについつい目を奪われてしまいます。豊かな耕作地へと発展させた安積疎水という農業インフラ整備がもたらしたと思われるひな壇状の耕作地は郡山市内には数多く見ることができます。

( 2017/09/23  記述)

いちおう瓜坪館と推定されている辺り ⇒ 画像クリックで拡大します
文化財データベースが瓜坪館と推定されている辺り
( 2016/11/16 撮影 )
訪城アルバム
東側の小丘陵 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 東側の小丘陵
 推定地から見ると約100mほど東側に所在する小丘陵で気になる地形のひとつで、所在地は片平町、或いは下伊豆島辺りになるのでしょうか。
凸2 推定地を北東から
 見物檀(見物坦)の集会所から北東に市道を約100mほど進んだ左側(北西側)の水田地帯に相当します。こうした一見すると郭跡などと勘違いをしてしまいそうな規模の大きな棚田状の地形は郡山市西部にたいへん多く見られます。

推定地南側の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
目をひく地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 推定地南側の地形
 画像2の推定地から見ると市道を挟んだ南側の浅い谷の対岸に見られる丘陵を開墾した耕作地(水田)です。
凸4 見物檀辺りで一番目立つ地形
 字見物檀の付近ではとてもよく目立つ地形のひとつで、あくまでも耕作地として整備開墾された規模の大きな棚田ですが、強いていえば「福島県の中世城館跡」の城館跡分布図が示している辺りがこの付近であると推測されます。

周辺の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
見事な切岸 ^^ ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 周辺の航空写真
 「1」が画像4と6、「2」が画像3、「3」が画像1に相当しますが、本来の「字瓜坪舘」は「瓜坪池」の東側に相当し、「字瓜坪」はさらにその南東の方に当たるようです。
凸6 見事な切岸 ^^
 耕作地整備による人工地形ですが、それにしても見事な切岸ではあります。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)掲載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)掲載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているがこの瓜坪館の記述はない。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)字名のみ収録されている
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) ⇒ 「表7安積郡の城館」一覧に掲載あり
「富田ふるさと町史」(2004/郡山市・富田町合併50周年記念事業実行委員会) ⇒ 掲載あり
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」字名のみ収録されている

史料、地誌
・「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) ⇒ 掲載あり

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)航空写真画像を編集加工した


・2017/09/23 HPアップ
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