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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/20のブログ 葉山館 堂山館
所在地
 福島県郡山市大槻町字城ノ内、熊ノ木ほか
歴史、人物、伝承

四方から侵略を受けた安積地方
 春日神社が鎮座する葉山館の麓から大槻城までは直線距離にして約300mという指呼の間に所在する城跡である。
 大槻伊東氏(大槻氏とも)の観応期以来の本拠地とも推定される中世城郭であるが、安積伊東氏全体が一族としての求心力を欠いていたことなどから、戦国時代末期には東西南北の四方から蘆名氏、三春田村氏、伊達氏、二階堂氏などの圧力にさらされ正に草刈り場の様相を呈するに至ったものと考えられる。
 「大槻浮沈録」「大槻伝光録」「会津旧事雑考」「伊達文書」などの諸記録によれば、永禄2年(1559)会津の蘆名盛氏は大槻城の大槻伊東氏の所領に進攻し、佐柄(相良とも)、大河原などの有力重臣が自刃し、そののち安積地方は蘆名氏の勢力圏に置かれることとなったという。
 その直後の永禄5年(1562)、今度は三春田村氏の一族である田村月斉が阿武隈川東岸から安積地域に侵入し、当時の城主であった大槻高行が討死(あるいは詰め腹とも)を遂げ、その嫡子である行綱はその去就が定まらなかったことから家臣団の分裂を生じ、大槻氏の庇護者であった会津蘆名氏により葉山館に2年の間幽閉されたとも伝わり、この時点で領主としての大槻伊東氏は事実上滅亡を遂げた。なお、行綱の死亡後には嫡男行久は伊達成実を頼り、弟行頼は二階堂氏の重臣である母方の祖父須田備前を頼ったという。
 この際、重臣であった相良氏の一部は行頼と、針生館主窪内氏は行久と行動を共にしたともされている。
 その後安積地方は天正17年(1589)の蘆名氏滅亡後には一時的に伊達氏の勢力下におかれたが、翌天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きにより、蒲生氏郷の支配するところとなり、安積地方にはこの大槻と安子ヶ島が支城として拡張整備され、大槻城は重臣の蒲生忠右衛門が城代となった。しかし、翌天正19年(1591)には両城とも廃され城郭としての使命を終えたとされている。現在確認される城跡の名残の大部分は、この蒲生氏支配下の改修によるものであろう。
 (以上については主に「郡山市史第8巻資料編」「大槻町の歴史」などより引用させていただいた)

確認可能な遺構
 明確な遺構は確認できない(大槻小学校校地および周辺の宅地が城跡と推定されている)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月20日 午前9時50分から10時30分
訪城の記録 記念撮影


 平地に近い低丘陵
 郡山市内の中世城郭について詳しい垣内和孝氏の論考などによれば、微高地となっている大槻小学校の校庭が主郭として推定され、東西にのびた形状であるとされ、東流する壇経川の流路を南限として考えられているようなのですが、西側の範囲については城館関連地名とも思われる地名が遺されているものの、範囲の特定には至っていないようです。
 城域内にわずかに土塁や堀跡とも推定される地表上の地形が僅かに確認できるものの、全体としては城跡としての地形的な印象を強く感じるものではありませんでした。領域を支配するという役割を果たす分には有用な存在であったのかも知れませんが、限りなく平地に近い地形に存在していたという要害性の不足は否めないものがあったと考えられます。
 下記の画像は主郭近辺の推定堀跡の一部ですが、曲線を描く道路の形状が堀跡の名残に由来するものであるのかどうかについては確信を持てませんでした。

( 2016/07/11 記述)
大槻城本丸堀跡付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
大槻城本丸北東角堀跡付近
( 2015/10/20 撮影 )
訪城アルバム
葉山館方面からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
左本丸、右城ノ内 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 葉山館方面からの遠景
 春日神社が鎮座する葉山館の麓から大槻城までは直線距離にして約300mという指呼の間です。
 「大槻浮沈録」「大槻伝光録」などの後世に纏められた記録類によれば、永禄5年(1562)田村月斉が安積地域に進攻し、城主大槻高行が討死を遂げ、嫡子である行綱はその去就が定まらないことから、会津の蘆名氏により葉山館に2年の間幽閉されたとも伝わります。
凸2 左本丸、右城ノ内
 城ノ内のさらに西側には中柵、上柵の字名も残されていますが、仮にその最終形態を蒲生氏支配期としても、どの辺りまでを城域と見るかについては見解が分かれるようです。蒲生氏時代のものは少なく見ても東西約500m、南北300m以上の規模に及ぶという推定もあるようです。

堀跡とも ⇒ 画像クリックで拡大します
土塁か ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 堀跡とも
 住宅地内の各所には、このような堀跡とも推定される区画が遺されていました。
凸4 土塁か
 植栽の土手になっていましたが、往時の土塁のようにも見えなくもありませんが、規模が小さいことから近世以降の風除けの土塁という可能性も考えられます。

堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
壇経川 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 堀跡
 こちらも、堀跡と推定されている個所で、左側に土塁のようなものが存在する可能性もありそうでした。
凸6 壇経川
 城跡南側を東へ流れている小河川で、往時には水堀としての役割を担っていたものと考えられています。

殿町集会所 ⇒ 画像クリックで拡大します
本丸堀跡付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 殿町集会所
 最寄りのバス停の名称も殿町で、全くの部外者ではありますが、地名にこうした歴史の流れが伝わるという豊かな文化的環境が今後も続いていくことを願っております。
凸8 本丸堀跡付近
 部外者立ち入り禁止のため、城跡の石碑を見ることは遠慮させていただきました。1980年と1982年の発掘調査によって、この水路の校庭側に幅約20mに及ぶ堀の存在が確認されているということです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

郷土史関係等
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述している。
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「大豆生田沙弥道綱」の名が見られる。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
「郡山市史第8巻資料編」
「大槻町の歴史」(2009/郡山市・大槻町合併55年記念事業実行委員会)

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「駒屋村館 里老伝に安部美濃守居城也云々」との記述があり、近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
郡山市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/07/11 HPアップ
・2016/07/21 大槻伊東氏の記述追加訂正
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