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素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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 1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/20のブログ 葉山館 
所在地
 福島県郡山市大槻町字愛宕、愛宕西、山下
歴史、人物、伝承

相良氏の伝承
 城主、築城者、築城年代を特定するような確実性のある資料は少なく、「城郭体系」では明応−永禄年間・相良三河守包頼の居館」という説を提示しており、これが従来における通説のひとつと言える。
 なお同書の記述については、「安積郡大槻村地誌」(明治10年編纂)によれば、「堂山の舘 本村南山下在家南ニアリ 大槻高行ノ時年寄役相良三川包頼ト云モノノ館ト云」との伝承が収録されており、おそらくはこの記述が元になっているものと考えられる。
 相良氏は大槻伊東氏の滅亡後にその一部は大槻行頼とともに須賀川の二階堂氏を頼ったともいわれているが、そのまま現地にとどまりやがて帰農した相良氏一族も見られたようである。
すなわち 「大槻組名主家譜書上帳」(安斉家文書)によれば、「往古より大槻村に住居があった 代々名主を相勤め、慶長年間に蒲生飛騨守様の所領の時には、相良勘解由貞好と名乗り名主を勤めていたが、何時から名主を仰せ付けられたのかは不明である」(現代文に意訳)との記述があるという。(「大槻町の歴史」第3章より)
 一方、傾聴すべき説として、垣内氏はその著書である「室町期 南奥の政治秩序と抗争」において、「葉山館」との小口、空堀の縄張りの形態などの類似性から、「戦国大名クラスが築城した陣城説」を提起されている。
 仮にこの説に従って、その名を上げるとすれば同氏の指摘する佐竹氏の支援を受けた蘆名氏によるということになるのかも知れないが、蘆名氏の滅亡も重なり直接その事実を示すような同時代の資料は残されていないこともあり謎に包まれた城郭である。
 大槻城、葉山館からは南へ1kmほどの独立丘陵でもあることから、蘆名方による大槻城方面に対する一時的な攻略拠点であるとすれば、安積伊東氏方に対する圧力も有効に作用するであろう地理的条件があり、出陣、攻勢を優先する陣城としては、南川などの小河川による地形効果も加味すると好適地であるのかも知れない。
 郭部分については、現在のところ主郭とその東側の二の郭が遺されているが、その面積は約8000平方メートル程度であることから、数百人規模の軍勢による布陣には適当な規模ではある。

確認可能な遺構
 小口二重土塁空堀帯郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月20日 午前9時00分から9時40分
訪城の記録 記念撮影


 せめて標柱を
 主郭をほぼ全周している土塁は比較的小規模なもので低くなってはいるものの、主郭東側には神社参道の整備に伴い地形の改変が見られますが、二重土塁構造によって防御された食い違い状の小口(外枡形のようにも)が残されていました。
 主郭北側の帯郭には小規模で短いながらも、このあたりでは比較的珍しい畝状の空堀が存在しているのですが、藪のなかなので肉眼ではどうにか視認できるのものの、残念ながらデジカメではただの藪の塊にしか見えませんでした。
 また主郭と二の郭の前面にそれぞれ存在する横堀は、小口付近を防御する役割を担うとともに両者とも帯郭へと続く構造となっていました。なお、主郭東側の二の郭南部は幅約40mほどにわたって土砂の採掘?などと見られるような大きな崖の掘削がありますので、足元の崩落、転落防止などの注意が必要とされます。
 集落が存在する丘陵麓との比高差は最大で約20メートルほどを測りますが、愛宕神社参道のある南南東からのルートは極めて勾配の緩い緩斜面であるため、自然地形としての有利性は弱いように感じました。
 この時も折からの除染作業と駐車スペースの確保で競合してしまいましたが、できるだけ作業の邪魔にならないように地元集会所スペースの端の方に止めさせていただき、かなりの急ぎ足で探訪したために結果的には十分に細部を確認する時間がありませんでした。機会があれば再訪したいところなのですが、そろそろ年齢的にそのための時間と体力の確保が難しくなってきました。
 サイト掲載に際してあらためて気が付いたことですが、どんなに古びたものでも、どんなに小さくとも何か城跡であることを示す標識のようなものがあると嬉しいのですが、郡山市内を巡って城跡に関連するような文化財説明版に出会えたのは全60か所のうち2か所だけでした。
 私有地に伴う地権者の方の了解や役所サイドの財政事情など様々な問題もあろうかとは思いますが、こうした文化財に対する理解が深まることを切に願います。

( 2016/06/25 記述)
二の郭から主郭へ ⇒ 画像クリックで拡大します
二の郭から西側の主郭へ
( 2015/10/20 撮影 )
訪城アルバム
北東尾根筋 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の郭東端の土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北東尾根筋
 緩やかな坂道の参道ですが、この辺りから城域の雰囲気を感じます。垣内氏の著書によれば、相良氏の墓所あるいは古墳と推定される小規模な墳丘群が所在するようです。
凸2 二の郭東端の土塁と空堀
 画像1から西北西に約30mほど進んだ地点で、垣内氏の縄張り図では、土塁、空堀ともにやや直線的に描かれていますが、実際の地形は円弧状に丸みを帯びたような印象があります。

二の郭北東部 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭前面の防備 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 二の郭北東部
 手前の愛宕神社への参道側から眺めますと、いくぶん低位に位置し丘陵麓でもある北東方向に緩やかに傾斜しているように感じました。
凸4 主郭前面の防備
 主郭南東角部分の土塁と空堀で、手前の空堀の方は大分落ち葉や土砂により埋もれている様子ですが、土塁の方は2m以上の高さで小口付近を防御しています。

空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 空堀と土塁
 主郭南東部の防御拠点となる個所の空堀と土塁です。
凸6 小口付近
 主郭側から見た小口付近の様子ですが、真ん中を愛宕神社の参道が貫通しているため、ある程度の地形改変が想定されます。素直に考えますと残存している土塁が南西方向に目立つこともあり、南西方向からの侵入を想定した防御思想を感じます。

空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
愛宕神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 空堀と土塁
 画像5の個所の空堀を少し奥に入り、角度を変えて撮影しています。
凸8 愛宕神社社殿
 主郭となる愛宕神社社殿です。郭の大きさは南東側、南西側ともに約40mほどの不等辺五角形をしています。
⇒愛宕神社縁起
⇒愛嬌のある狛犬
⇒愛宕神社神額

北東小口か ⇒ 画像クリックで拡大します
帯郭の張出し部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 北東小口か
 主郭北東の小口とも思われる個所なのですが、南東部の参道から入る小口以外にも、このほかに3か所ほどの土塁がない個所があるので、畝堀の個所を通過して真っ直ぐに主郭内にアプローチしている所から考えると、後世に切り開かれた裏参道のルートなのかもしれません。
凸10 帯郭の張出し部分
 主郭南部上段の帯郭で、土塁に挟まれた堀底部分を含めると概ね主郭部下方をを全周しています。なおこの張出し部分のすぐ先の方で斜面が鋭く掘削されていますので、足元の注意が必要です。

主郭南東角の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀底 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 主郭南東角の空堀
 画像10から続く帯郭を進むと、張出し部分の北側に堀底道状の空堀があり、こちら側に自然に足が向くような構造になっています。この空堀部分は主郭の二重土塁の内側に相当し、武者隠しのような役割も期待できるかもしれません。
凸12 堀底
 画像11のところからさらに進んだ個所で、本来は主郭小口手前の切岸にぶつかり行き止まりとなる構造ですが、落ち葉や土砂による堆積により埋もれているため少し分かりにくくなっていました。。

主郭小口 ⇒ 画像クリックで拡大します
東側からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 主郭小口
 一番上の画像の個所をそのまま真っ直ぐ参道をすすめば、この地点に出ますが、この画像は一度主郭から南側の帯郭を経由して二重土塁の堀底をつっきり、行き止まりの切岸を登り再度ここに出たときに撮影したものです。
凸14 東側からの遠景
 城跡は標高284.3m、比高差約20mほどの独立丘陵に所在しています。周囲には北西方向の葉山丘陵を除けばほかに視界を遮るような地形がないことから、眺望には優れていたことだけは間違いがなさそうです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「大槻町の歴史」(2009/郡山市・大槻町合併55年記念事業実行委員会)
城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

郷土史関係等
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述している。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
「大槻町の歴史」(2009/郡山市・大槻町合併55年記念事業実行委員会)

史料
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/06/25 HPアップ
・2016/07/21 「大槻町の歴史」などの記述引用を追加
・2019/03/08 chrome対応のためタグ訂正
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