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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/18のブログ 新城館 本宮館 松森館
所在地
 福島県二本松市郭内
歴史、人物、伝承

戦国期には複合城郭の堅城
 応永21年(1414)畠山満泰の代に北方の低丘陵に占地する田地ヶ岡から白旗ヶ峰(二本松城前身)へと居城を移したとされ、以後天正14年(1586)までの9代約170年の長きにわたり二本松氏(畠山氏)の本城としてその役割を果たしていた。
 しかし東安達郡を拝していた大内定綱の敗走に始まる天正13年粟ノ須での騒乱事件(伊達輝宗の死去)を契機にして、伊達政宗はかつての奥州管領で名門の二本松氏(畠山氏)の攻略に取り掛かる。しかし二本松氏一族の新城弾正少弼(心安斎)が当主である12歳の国王丸(梅王丸とも)を守り立て、その奮戦により優勢な伊達勢を一度は撃退した。
 戦国期二本松氏時代の城郭は、この新城氏の居館とされる「新城館」(近世初期の「西城」)を始めとした複数の譜代重臣の居館(防御拠点)から構成されている。なお中世城館跡としてはこのほかに少なくとも、「鹿子田館」、「松森館」(東城)、「簔輪館」、「本宮館」、「鳥井戸館」、「栗ヶ柵館」「新安館」など、二本松氏重臣の多くの館跡が東側から南側の丘陵地帯に山城の本城部分取り巻くように所在しているという。
 和議による二本松城の開城後には政宗の一族である伊達成実が城主となり、豊臣秀吉の奥州仕置以後は蒲生氏、上杉氏、蒲生氏(関ヶ原合戦以降に再入封)、松下氏、加藤氏などと目まぐるしく城主が変わり、寛永20年(1643)に丹羽光重が知行10万石で白河より移封され幕末を迎えた。
(「二本松市史 通史編(1巻)」「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」等より)

確認可能な遺構
 郭、石垣、井戸、腰郭、堀切ほか
文化財指定
 国指定史跡 2007年7月26日指定
訪城年月日
 2008年6月18日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/10/08 )
 黄昏の訪城
 この期に及んで縄張図などの基礎的資料を全く持ち合わせないという事情から、手始めに市役所へ向い文化財・観光課等の関係課窓口にて資料と情報を収集。 次に市立資料館へと赴き市史関係資料を購入。次に途中で見かけた高台墓地からの遠景撮影ポイントへと移動して二本松城の超望遠画像を撮影し、再び資料館方向へと戻りひと山超えて漸く麓の駐車場へと到着しました。
 三脚付デジカメを担いで復元・復興?された箕輪門と二重櫓の個所から見学を開始しました。とはいえ既に午後5時を過ぎていることから、ある程度有名な観光スポットとはいえ人影は殆ど見当たりませんでした。この地点からから本丸の所在する頂上までは比高差にして約100mほどでした。遊歩道の整備された登り道は、腹具合の不調、呼吸の不調、薮蚊、蒸し暑さを除けば快適そのものの環境...つまり早い話が絶不調と表現すべき状態でありました。
とはいえ、最近はめっきり衰えた管理人の足でさえも、徒歩僅か20分足らずで整備された山頂の本丸へと到着してしまういう気楽さでした。
 それでも山上からの眺望は予想通り「天空の城」の趣さえ感じられる良好な環境に気分は一新されました。復興された本丸天守台跡にて、血流改善のため腹具合の方は無視して、本日6本目となる500ml入りの飲料水で水分補給を実施。勿論当人以外は全くの無人です。時折吹き抜ける風はまさに一服の清涼剤の趣がありました。このようにして当初の思惑通りに二本松城本丸を独り占めし、贅沢かつ至福のひと時を過ごすことに成功。折りしも安達太良山に夕日が沈みかけ、「♪♪東京の空〜 灰色のそおら〜」と倍賞千恵子の歌が脳裏をよぎり、その後暫くの間頭の中でメロディーがリフレインを繰り返し続けるのでありました。
 このあとは城内の搦手口(戦国期の大手口との説も)、二本松少年隊の碑(新城館)、千恵子抄の碑など幾つかの史跡・名所を観光客のように巡り、足は棒、息も絶え絶えで麓の駐車場へ戻ったのが午後7時ちょうどの日没直後という次第になりました。無論遺憾ながら時間の関係で見落とした個所も少なくないものの、夏至直前の晴天でなければとても行動不可能なスケジュールなのでありました。
 なお戊辰戦争での解説板等には新政府軍の呼称は「官軍」「征討軍」とは呼ばずに「西軍」との表記が目立ち、よくよく考えれば未だ140年ほど以前の出来事故に、未だにある種の拘りがあっても然るべきかと納得をいたしました。

「二本松城簔輪門と二階櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
二本松城簔輪門と二階櫓
( 2008/06/18 撮影 )
訪城アルバム
「二本松城本丸遠景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「二本松城東麓の高石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 二本松城本丸遠望
 阿武隈川左岸に所在する見晴らしの良い河岸段丘上から撮影したもので、石垣部分は本丸枡形と東櫓台の辺りに相当します。
 また、手前に写っている低丘陵は二本松氏時代の「栗ヶ柵」(重臣の居館兼防御拠点)東方に続く地形に該当しているものと思われます。戦国期の二本松氏当時の二本松城については、こうした自然地形を含めて全体として南側の外郭を形成していたという見方もあるようです。
 しかし、仮にそういたしますと東側に口を広げた馬蹄形の防御体制という通説とは相容れなくなり、困惑するのであります。
凸2 東側麓の高石垣と二階櫓
 午前中に訪れるのがベストであるとの「城郭見どころ事典」の情報を読んでいたにもかかわらず、日程の都合上から日没前に訪問することとなってしまったために、このように不自然且つ色合いの乏しい画像を晒す仕儀と相成りました。(ASA800、露出1ステップ+)
 これでも一応はフォトショップ( ⇒ ただし、デジカメ付属のおまけソフトのLEにて )でライティングその他思いつくかぎりの諸々の修正を行ってはおります。然し元々が真っ黒に近い画像のため、画像バランス上ではどうしてもこれが限界なのでありました(苦笑)
 何れ再訪し丸1日を要して全域を踏査せねば...

「二本松城簔輪門への坂道」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「二本松城二階櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 簔輪門への坂道
 復興された二階櫓を背景にして、城址碑と二本松少年隊の銅像を記念撮影しております。辺りは夕闇に包まれ始めているためにどうしてもモノトーン気味の色合いとなり果てるのでございます。
 会津の白虎隊に比べますと、ややその知名度に差のある戊辰戦争における「二本松少年隊」を顕彰する銅像銅像部分拡大画像および現地解説板の画像。勝敗の帰趨を握る激戦となった大壇口では、12歳から17歳までの25人が参戦し、別の戦場と合わせて14名が戦死を遂げたとされています。なお、「二本松少年隊」という名称は大正6年(1917)当時の二本松町助役である水野好之氏が「二本松戊申少年隊記」という冊子を刊行したことに由来しているということです。
 (「ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台 上巻」より)
凸4 簔輪門と二階櫓
 この画像も同様に背景の青空が白くなるまで画像修整しておりますが、やはり光源の不足は否めないものがありました。
 簔輪門とこの二重櫓は昭和57年(1982)に、ある程度は時代考証に基づき二本松市のシンボルとして復興されたものといわれているようですがが、実際にこれほど壮大なものであったかどうかについては多少異論もあるらしく「模擬建築物」というような説明している資料もあります。
 
 簔輪門の現地解説板
 外側から眺めた簔輪門および城中から眺めた簔輪門向い側の城壁は、近世城郭の大手口に相応しい印象ですが、戊辰戦争当時には分かり易い攻撃目標物でしかなく、もはや無用の長物と化していたのかも知れません。

「二本松城本丸枡形小口」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「二本松城本丸石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 本丸枡形小口と東櫓台
 手前が整備された本丸の枡形小口で、画像中央部が東櫓台となります。復元されてから大分年月が経過しているはずなのですが、どちらかといえば石材の新しさが目立つために何処となく周囲の景観に馴染んでいるとは言い難いような印象もありました。
 この本丸には昭和30年代に新興宗教の「三五教」(あなないきょう)が教団の活動拠点として天守閣風の巨大な天文台を建設し大きな騒動となりましたが、その後二本松市が買収し平成3年(1991)に撤去されました。
 現在の本丸石垣の状態は平成8年(1996)に修理整備されたものとのこと。
 本丸東側に部分的に残存する蒲生氏時代のものと思われる石垣南東の方角から見上げた本丸石垣復元された天守台並びに何処となくもの寂しさを感じてしまう本丸の中心部分の画像。
凸6 本丸西側石垣
 石垣の向いている方向が概ね真西に相当するはずですので、やっと自然な感じの画像を撮影できました。なお、この画像加工したものを、福島県の各城館のページの背景に使用しております。

⇒第一次世界大戦頃までの軍艦の舳先を連想してしまう本丸石垣南側とその先端部
⇒加藤氏が築いた石垣の内側に蒲生氏時代の石垣が存在している事などを記した石垣の解説板

本丸石垣南側部分
本丸石垣西側部分
⇒北西方向から撮影した天守台部分の石垣

「二本松城旧石碑」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「二本松城搦手門」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 本丸南側の旧城址碑
 左側の説明板によりますと、こちらの昭和20年代に建立された城址碑については、本丸の整備の際にこの本丸直下に所在する南側の平場(二の丸とも)に移転されたと記されておりました。。
凸8 搦手口
 城中より眺めた搦手方面の坂道で、どちらかといえば「土の城」に拘泥し愛着を感じる管理人といたしましては、このような斜面(たぶん切岸かと)のある風景に一層親しみを感じ暫し心和むのでありました。
腰郭の名残?
搦手の石垣(城中より見て右側)
⇒裏門が所在した搦手の石垣(城中より見て左側)
交通案内

・比高差約100m

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「ふくしまの城」(鈴木 啓 著/2002/歴史春秋出版)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「定本日本城郭事典」(西ヶ谷 恭弘 編/2000/秋田書店)
「日本城郭辞典」(大類 伸 監修/1992/秋田書店)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ))
「国別 城郭陣屋事典」(2002/西ヶ谷 恭弘 編/東京堂出版)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「国別戦国大名城郭事典」(西ヶ谷 恭弘 編/1999/東京堂出版)
「中世・戦国 江戸の城」(2004/新人物往来社)
「新・日本名城図鑑」(2001/新人物往来社)
「城郭みどころ事典 東国編」(2003/東京堂出版)
「江戸三百藩 城と陣屋総覧 東国編」(2006/学研)
「精選 日本の名城」(2006/新人物往来社)
「新撰 日本の名城」(2007/新人物往来社)
「日本100名城 公式ガイドブック」(2007/学研)
「図説・日本名城集」(2001/学研)
「日本百名城」(中山良昭/2004/朝日新聞社)
「日本の名城・古城もの知り事典」(1996/主婦と生活社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台 上巻」(2007/福島民報社)⇒情報も新しく、エピソードも豊富
「三春町史1通史編」(1982/三春町)
「三春町史7中世資料編」(1978/三春町)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「二本松市史 通史編(1巻)」(1999/二本松市)
「二本松市史 資料編(3巻)」(1981/二本松市)
⇒中世二本松城と二本松氏(畠山氏)に関する記述は最も詳しい

史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本

「積達館基考」(「二本松市史 資料編(3巻)」所収)
 ⇒文政2年(1819)に二本松藩士成田頼直により編纂された史書。安達・安積郡地域の古城館の由来などが、「積達古館弁」(安斎彦貴著)を補訂するという趣旨に基づき踏査・考証という実証的な姿勢で記され全7巻から構成され、第1巻から3巻が西安達郡、4巻・5巻が東安達郡、6巻・7巻が安積郡となっている。

「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

その他
福島県文化財データベース
二本松市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
「図説戦国合戦総覧」(1977/小和田哲男 著/新人物往来社)
「史伝 伊達政宗」(2000/小和田哲男 著/学研)−− 「伊達政宗 知られざる実像」(1986)を文庫化したもの
「現地案内解説板」、「悠々城址内」(パンフレット) 

・2008/10/09 暫定HPアップ
・2008/10/13 写真説明一部追加訂正
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