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2015/10/19のブログ 凸駒屋古館 凸石橋館 | |
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福島県郡山市三穂田町駒屋字舘ノ後 |
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屋敷構え北側付近に堀跡?、土塁跡? 平地に立地していることから余り防御性は高くはない |
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なし |
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2015年10月19日 午前8時50分から9時20分 |
( 2015/10/19 撮影 ) |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) 「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) 「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ■郷土史関係等 「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) 「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店) 「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「河田左衛門尉祐義」の名が見られ、伊東氏一族の通字である「祐」の一字が含まれていることは見逃せない。 「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市) 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。 「」 ■史料 「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) 「駒屋村館 里老伝に安部美濃守居城也云々」との記述があり、近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。 「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より) なおこの他に、「中世城館調査報告書」によると、旧名主である山岡家に絵図を含む「山岡家文書」という古文書が伝わるとされているという。 「大槻家伝光録」(「大槻町の歴史」ほかより) 江戸時代末期安政3年(1856)に編纂された同書によれば、鎌倉時代初期に鎌倉御家人伊東氏の所領の一つとなり、その後建武政権のころには伊東祐高が大槻地方を領有を続け、駒屋に富田美濃(伊東氏一族か)、山口に松井大学頭、針生に窪田掃部などを配置した旨が記されている。しかし同書は、あくまでも後世の幕末期に仙台角田藩家臣の大槻家末裔とされる大槻祐洋の手によるもので、その遠祖を顕彰するというような側面もあることから、史料としての限界があるという点について留意する必要も感じられる。 「大槻町の歴史」(2009/郡山市・大槻町合併55年記念事業実行委員会) 大槻伊東氏に関する最も基礎的な事跡が数多く掲載されている書籍である。同書によれば、大永元年(1521)に会津の蘆名盛舜が大槻伊東高行に与えた知行状に、三穂田山口、駒屋をはじめとして逢瀬町多田野、芦ノ口、大谷、八幡、柴宮の在家名が記されているという。この文書については出典の明記はないが、「郡山市史8巻資料編」の中世史料349「伊東高行証状」(松藩推古)、350伊東高行知行充行状(相殿八幡神社文書)などによると、天文19年(1550)において引き続き山口の地が大槻高行の所領の範囲に含まれていたことを裏付けるものとなっていることが確認される。 ■その他 福島県文化財データベース「まほろん」 郡山市役所公式HP 「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院) ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。 ・2016/05/31 HPアップ
・2016/07/21 「史料」として「大槻家伝光録」、「大槻町の歴史」の各記述を追加した |