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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/15のブログ 速水館 名倉館
所在地
 福島県郡山市小原田4丁目3番付近(香久山神社境内)
歴史、人物、伝承

小原田氏の城館と伝わるが
 当該遺構を中世城館跡としている資料に関しては、今のところ「郡山の城館」(2015/垣内和孝/著)から確認したのみであり、「まほろん」(福島県文化財データベース)「埋蔵文化財包蔵地マップ」(郡山市)、「福島県の中世城館跡」、「日本城郭大系」の何れにも掲載はされてはいない。
 「角川日本地名大辞典第7巻」(福島県)の「小原田村」(近世)の項によると、同村内には館跡が3か所存在し、西館( ⇒ おそらくこの小原田館を指す)は「天正2年に須賀川の二階堂盛義方についた小原田壱岐守が築き(「安積郡誌」より−※ただし現存しているのは「安積郡誌抄」である)、名倉館は名倉五郎左衛門尉(「小原田村大概帳」−いまのところ未詳、※名倉館の所在については不明であるとされている)、早水館は佐竹氏に仕えたという早水玄蕃が住した(「相生集」)とされている。むろん、これらの記録類は口伝などを集めた後世の江戸時代以降に編纂された地誌類であり、その史料としての信頼度は決して高いとはいえない。
 このように近世の小原田村については、その当時において3か所の城館跡が伝わっており、そのうちの早水館と西館(小原田館)の2か所に関しては、概ねその所在地が判明している。

確認可能な遺構
 土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月15日 13時35分から13時55分
訪城の記録 記念撮影


 西館=小原田館か
  小原田地域(おそらく名倉を含む)には速水館、名倉館のほかに、西館( ⇒ 速水館の西、あるいは小原田の西という意味合いか)が存在していたとされており、今のところ「香久山神社」の所在から、この小原田館をその比定地として見るのが妥当ではないかと考えられます。
 また「郡山の城館」では、明治期の地籍図などから、小原田公民館から小原寺にかけての範囲に大小の郭の存在を示唆されています。 同書によれば、舘主は小原田氏であり、天正16年(1588)の郡山合戦の際に発せられた佐竹義重の書状から( ⇒ 現在この出典を捜索中で、おそらくは佐竹氏本拠の常陸方面の自治体史などの資料編あたりに収録されているかも知れない)、佐竹勢が布陣する予定であったとも考えられているようです。確かに香久山神社背後西側に神社の土塁には相応しくない規模を有する延長にして50mほどの土塁状の高まりが認められます。しかし郡山の市街地に含まれているために、戦後間もない航空写真でさえも、すでにそ以前から宅地化、耕地化が進行していたらしく神社の社叢以外には判別することは困難に思えるのでありました。

( 2017/02/18  記述)

香久山神社の境内 ⇒ 画像クリックで拡大します
香久山神社の境内
( 2016/11/15 撮影 )
訪城アルバム
小原田地域公民館 ⇒ 画像クリックで拡大します
緩い上り坂 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 小原田地域公民館
 香久山神社の北側に隣接している公民館です。以前は少なくともこの公民館の敷地辺りまで城館跡の痕跡があったのかも知れません。なお、この日だけなのかどうかは分かりませんが、駐車場が満杯でしたので、徒歩で訪れたのは正解でした。
凸2 緩い上り坂
 「画像1」の公民館前の道路から香久山神社が所在する南へと延びている丁字路はいくらか緩い上り坂となって続いていました。

香久山神社西側 ⇒ 画像クリックで拡大します
西側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 香久山神社西側
 香久山神社へのアクセスはこの西側からの路地を進むか、東側からの参道から訪れるかのどちらかですが、いずれにしても明確な駐車スペースがありませんので、徒歩にて訪れた方が無難なようです。
凸4 西側土塁
 定石通りならばこの画像の左側は堀跡に相当するはずなのですが、現在は宅地化されてその面影は全く感じられませんでした。

西側土塁の北端付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
西側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 西側土塁の北端付近
 神社社殿西側の土塁の北端部は、この辺りから90度方向を変えて社務所などのある東側へと屈曲しているようにも見えます。
凸6 西側土塁
 西側の土塁を北端部付近から撮影したものです。この画像からも分かるように当該土塁の基底部幅は軽く10mを超え規模があるようで、神社の普請に付随している土塁とは異質の要素があることが伝わってきます。

神社の東参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 神社の東参道
 東側の集落から続く参道を入るとこの鳥居があり、正面の香久山神社社殿の奥に「画像4から6」の土塁が存在しています。
凸8 国土地理院航空写真
 赤色の枠と小原寺の間に屋敷構えの一画と、いくつか堀跡のようにも見えなくもない細長い区画も見えますが、小原田館との関連性については分かりません。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林)記載なし
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)記載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)記載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社) ⇒ 記載あり
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しており、この小原田館については小原田氏の城館として郡山合戦時には蘆名・佐竹側に与していたことを示唆している。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) ⇒ 記載あり 
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
・「安積郡誌抄(福島県郡誌集成第2集より)」(当初1916刊行、郡誌集成として1966復刊) ⇒ 記載あり
 ⇒ 小原田村の村名の起源及沿革の項に「天正2年に郡山太郎左衛門尉摂津守祐綱(※郡山城の郡山氏一族か)と、小原田右衛門尉隠岐守茂信(※安積伊東氏庶流か)と相計り一郭を築き西館という、今の香久山神社の境内及校地(※小原田小学校)の一部これなり、それより小原田と称す」とあり、また「名所及旧跡」の項には、「西館=天正2年中、領主小原田隠岐守茂信の築きたるものなり、小原田氏亡びて後、慶長19年10月7日その館城に社殿を建立して字番久山に鎮座ありし大海童命を祀れる八龍神社を遷御し、明治2年11月香久山神社と改称す、今の村社これなり」(一部を現代文に改め、※で私見を付した)との記事があります。
 この当時における郡誌編纂の性格上からは、この明治の末から大正期にかけてはそうした郷土の英雄をデフォルメする伝承等が相応しいものとされた傾向も窺えることなどから、出典の明確ではないこれらの記述をそのまま史実とみることはいろいろと問題もありそうに思われますがなかなか興味深い記述ではあります。
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」

史料、地誌
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) ⇒ 記載あり
 「小原田村西館 里老伝に伊藤隠岐守居城と云々」との記述があり、近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」

・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)


・2017/02/18 暫定版HPアップ
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