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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/15のブログ 比丘蓮館/久保田城 稲荷館/郡山城 
所在地
 福島県郡山市小原田2丁目22番付近
歴史、人物、伝承

那倉氏とも早水氏とも伝わる
 戦国時代の安積地方は有力ではあるものの安積伊東氏一族による広域権力が広がらず、比較的早い時期から蘆名氏、佐竹氏、田村氏ら近隣の戦国大名勢力の影響下に置かれており、一族庶流らの領主はその庇護下で家臣団に組み込まれるなどして命脈を保っていた。とくに天文年間以降にはその帰属をめぐり蘆名氏と田村氏の間で揺れ動くことが多く見られた。とくに天文12年(1543)の伊達天文の乱では、伊達種宗方の田村隆顕が安積に進攻し、安積の27郷を占拠し、下飯津(下伊豆島か)、前田沢、郡山、荒井、名倉、小荒田(小原田)の6城が落城したとされている。(「歓集直山章(仙道田村荘史所収)」−「郡山市史第8巻」より)ただしこの「小荒田」が西館(小原田館)、早見館のいずれを指すものであるのかについては不明である。
 「積達古館弁」によると「里老伝に那倉五郎左衛門尉居城のよし、一説に小原田の城主小原田内膳というもの須賀川籠城の記にあり..」と記され、また「2004年版 郡山の歴史」では早見玄蕃を城館主として記載している。
 「まほろん」(福島県文化財データベース)、「文化財包蔵地マップ」(郡山市)、「郡山市南拠点土地区画整理事業関連 荒井猫田遺跡2区 第16次発掘調査報告」(2006)、「福島県の中世城館跡」(1988)などで中世城館跡として取り扱われている。また「角川日本地名大辞典7」の「小原田村」の項によれば、同村には館跡が3つあり、西館(小原田館)、早見館、名倉館を挙げている。このうち、早見館については、「相生集」からの引用として、佐竹氏に仕えた早見玄蕃が居住した旨を記している。
 なお郡山市内には「○○館」と表記される字名がやたらに多く散見され、なかには中世城館とは関係の薄いものも存在していることに留意が必要である。

確認可能な遺構
 地表上に確認することはできない(未発掘か)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月15日 
訪城の記録 記念撮影


 なぜ低地に
  下記の画像からも分かるように現状では概ね宅地化がすすみ一帯は住宅地と化していますので、北辺部の曲折した道路以外には往時を偲ばせる景観は残されてはおりませんでした。 加えて戦前のかなり早い時期から圃場整備などや河川改修などが行われていた様子が窺われ、戦後間もない在日米軍の撮影した航空写真にもその痕跡を確認することは難しくなっておりました。
 北から保土谷化学の東側を通過して「方八丁」、「松木」、「昭和」と過ぎて、急に台地が落ち込んだ処から「小原田」となります。前述の航空写真などから、この境界部分には高さ2メートルほどの低い崖線地形が存在し、以前にはその辺縁部を用水が西側から流れ阿武隈川方向に向かっていたことも分かりました。つまり当該城館跡は台地南側の低地に存在していたことになり、阿武隈川の舟運や渡河点などとの関連を考慮したとしても、水害の面からは決して安全ではない立地条件であったものと推定されることから少なからず違和感を感じざるを得ませんでした。
 なお、北方の久保田館からここに至るまでの道のりが僅か4km足らずであるというのにもかかわらず、印象としては随分と遠くにあるように感じられてしまい、近年その能力低下の著しい足回りの劣化を嫌というほどに痛感いたしました。

( 2017/02/15  記述)

曲折する道路形状 ⇒ 画像クリックで拡大します
崖線に沿って曲折する道路形状(推定地の北部)
( 2016/11/15 撮影 )
訪城アルバム
北辺部付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
住所表示 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北辺部付近
 たまたま工事などの関係で道路上にチョークで記されているラインが、かつての道路の位置に相当するものと思われます。
凸2 住所表示
 当該城館跡が所在しいる小原田2丁目の住所表示の画像ですが、画像の奥の方からは緩い下り坂となっていました。この道を奥(西)へと進むと「小原田館」(西館とも)方面へと到達します。

小原田幼稚園/保育園 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 小原田幼稚園/保育園
 この幼稚園保育園の辺りが文化財包蔵地の概ね南西部のはずれ付近になるものと思われます。
凸4 国土地理院航空写真
 この画像からは以前は阿武隈川が当該城館跡のすぐ東側を北流していたようで、館跡はおそらくその自然堤防上に立地していたものと考えられます。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林) ⇒ 掲載あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)掲載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)掲載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)掲載なし
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述している。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店) ⇒ 掲載あり
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) ⇒ 掲載あり
 ⇒ 43頁には古い地籍図から想定復元したとみられる「早見館の縄張図」も掲載されている。 これによれば、東西約250m、南北約200mほどの方形であり、少なくとも5か所の郭から構成される城館であったことが推定される。
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)掲載なし
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」

史料、地誌
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)
・「三春町史第7巻」(1978/三春町)
 戦国期田村氏の基本資料として欠かすことのできない「田村家臣録」「田母神氏旧記」などの資料を収録している。

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 掲載あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 掲載あり
・「荒井猫田遺跡2区第16次発掘調査報告書」(2006/郡山市教育委員会) ⇒ 「周辺の遺跡一覧」に掲載あり
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)


・2017/02/15 HPアップ
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