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高坂館跡
関連ページのリンク  2004/09/30の日記  
所在地
埼玉県東松山市高坂字高済寺834 
歴史と沿革

 「新編武蔵風土記稿」によれば「この地は四方土手ありて、空堀所々に見ゆれば、陣屋の跡なるべし、一説に小田原訪城の臣、高坂刑部という者の屋敷跡なりと伝えど、その拠を知らず」と記されている。高済寺所蔵の「武蔵国比企郡高坂郷大渓山高済寺記録」には「武蔵国大渓山高済寺は、旧この辺城の跡なり。観応の時天、高坂刑部大輔ここに居る。この後相続いて何人の在城たるかを知らず。村老また無伝の者。」
 「喜連川判鑑」では応安元年(1368年)の平一揆の際に川越氏とともに一揆の中心勢力とされている。また、応永23年(1426年)の上杉禅秀の乱の際に「白旗一揆着到状」にも高坂御陣との記述が見られる。このほか北条氏康の松山城攻略の際にも「高坂」の地名が記されている。こうした過程を経て、この館の土塁・空堀が城郭の規模になっていると考えられている。築城は14世紀の南北朝の時代と推定されている。なお、江戸時代には1万石で加賀爪氏が領し陣屋がおかれたが天和元年(1681年)に改易となる。このため加賀爪氏累代の墓が土塁上に所在している。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 小代氏館の崖線の1kmほど北西の方向にある。北側目の前が都幾川であり、東側が小代氏館からの崖線となっている。1976年に行われた発掘などの現地調査の結果、東西170m南北200mに及ぶ広大な規模であることが判明している。

参考資料、古文書、記録

「東松山市史 資料編第1巻」(東松山市/1981編集発行) 
「東松山の歴史 上巻」(東松山市/1985編集発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫著/2003 岩田書院刊)

文化財指定
1976/10/01埼玉県選定重要遺跡( また、土塁上に所在する加賀爪氏累代の墓が、1963/08/27埼玉県指定の旧跡となっている  )
訪城年月日
2004/09/30
訪城の記録

 <<2004/09/30>>
■歴史・沿革の分かる城跡はやはり嬉しい。
 久しぶりにマイナーな中でも一応歴史・沿革がある程度はっきりしている訪城です。今までの3箇所が遺構はあるけど詳細不詳、記録はあるけど遺構がない、といったパターンが続いたもので.......やはり少し嬉しい。
 都幾川リバーサイドパークという運動公園の標識のある丁字路の坂道を下っていくと、自分のレベルでもそこが中世城館跡であることがすぐに分かるような地形となっている。車を下の公園のガラガラの駐車場に止めて、ゆっくりと見学できることにまず満足。軽自動車ではあるけれども、今までの4箇所が、迷惑をかけずに安心して駐車できる場所がなかったもので.......(^^)
■どこかで見た風景だが
 下から見上げる崖線はどこかで見かけた風景である.........たぶん所沢の「滝の城」の柳瀬川方向から見た感じに似ているのかもしれない。もちろん下からの比高は10メートルもないが、崖自体は急傾斜であり当時は手前の水路がないとしても、湿地帯または深田の水田地帯として水堀のような役割を果たしていたであろうことは容易に推測できる。土手の上から徒歩で山門のある表側へと回った。この土手は明治43年(1910年)の大洪水の時に改修工事が行われた際に、西側の土塁を土取りして築造したらしい。当時としてはやむを得ないことだが、なんということを......(^^;
■これがなかなか立派な土塁で
 土塁は山門を入ると左側に残されているが、境内側は墓石の区画によりかなり侵食されている。しかし、今回の他の場所に比べれば、誰がどう見ても土塁であると分かる規模の大きさ。内側で高さ2mから6m、長さ120m、上幅5m以上という規模である。東側の先端部分の土塁の高さが異様に高いのは元々あった古墳を利用しており、前方後円墳の円墳の部分であることが解明されている。中世における古代遺跡の破壊だなどといってみても、今更しょうがない......(^^; なお、古墳はこれ以外に南側に別々に2ヶ所あることが確認されている。尚この先端部分に加賀爪氏累代の墓が所在している。
■土塁の外側はもっとすごい
 加賀爪氏累代の墓の裏側から転びそうになりつつ下に見える空堀の方に降りると、その大きさに改めて驚くこととなる。空堀は幅10m、深さ3mと「東松山市史」には書かれているが、これは外側の土塁から見た高さで下記の写真のとおり内郭側では6、7mはありそうな壮大な風景である。これはもう館跡というより立派な城跡です(^o^)
 というわけで、浄財は金100也を納入させていただき予想以上に満足した訪城でした。
<<2004/10/05>>追記 / 高坂の読み方ですが、「高坂館」の時は「たかさかやかた」で「高坂氏」の時は「こうさかし」と読むということです。   

 


 この角度で見るとこれもなかなか立派な土塁です(^o^) これが城でなかったら他に何というべきか。多分、永禄年間の松山城攻略の時期に後北条氏によりも規模も拡大され大改修されてはいると思いますけど........。<<2004/09/30 撮影 晴れ>>
交通アクセス

 国道407号線(通称坂戸バイパス)を坂戸市を方向より北上し東松山橋南交差点を右折し50m先の都幾川リバーサイドパークという運動公園の標識を左折すると右側が館跡。駐車場は下のグランド脇ににあるが、スポーツイベントと重なる土日以外は混雑しないはず。
東武東上線高坂駅から徒歩10分


<<2004/撮影>>
 高済寺の山門と加賀爪氏累代の墓があることを示す標柱。東松山市はありがたいことに、よくこうした標柱や説明版がが満遍なく立てられている。
加賀爪氏累代の墓の説明版 2004/09/30撮影 加賀爪氏累代の墓の説明版。サムネイルにしてあります。なお、元和元年(1681年)とあるのは、加賀爪直澄の寺社奉行在職期間・没年から見て明らかに天和元年の誤記であるが、それにしても紛らわしい年号である。
 加賀爪氏累代の墓の全景。あまり夕方以降は訪れたくない雰囲気........。
 土塁上から空堀を撮影したつもり。
画像クリックで少しだけ拡大します 土塁の基部が墓の区画によりかなり侵食されて入るが、全体としてよく保存されている。
 空堀の底部から見上げた土塁。これはもう立派な城跡ですね。
 小口かどうか不明の空堀に向かう小道。坂小口といえば言えなくもないような......。
 東側の崖部分と水路。高さはないけれども、ちょっとやそっとでは上れません。
 

 
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