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田波目城跡
関連ページのリンク  2004/10/18の日記  
所在地
埼玉県坂戸市大字多和目字城山
歴史と沿革

 多和目城、大崖の城ともいわれている。「中世の坂戸」では一時的な陣所(陣城)という説を示している。ちなみに高麗川を挟んで日高市には田波目という大字名が残り、坂戸市には多和目という大字名が残されている。一説に毛呂氏の家臣の宿谷氏が拠っていたとの伝承がある。また、「新編武蔵風土記稿」には「城跡、西北にあり、広さ5反ばかりの山にて周りに土手の跡残れり、城跡のみ伝えて何人の居城なりしを知らず」と記されている。「武蔵国郡村誌」には「村の西方字城山にあり、高さ10丈余、険阻にして南は高麗川を沈み、東西は山岳を連ね、6反ばかりの平地なり、構土手築立跡を存し、城蹟と伝わるのみにて何人の居城なりしか知らず」と記されている。なお、「小田原衆所領役帳」には「川越三十三郷田波目葛貫146貫36文 御家中衆左衛門佐殿知行」とあり後北条氏(北条氏尭)の支配下にあったことが伝えられている。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 東西110m、南北45mの長方形に近い、標高113.4mの城山に築かれた単郭の城郭である。毛呂山丘陵の東端に位置し南側に高麗川の流れを配し、この方面はほぼ絶壁といっても過言ではないような天然の要害。しかし北西に伸びる幅広いなだらかな尾根は致命的な弱点のひとつであろう。「縄張り図」については、多分下記の「中世の坂戸」(62頁)が、もっともよく現状を説明しているように思う。北東側にあるという横矢がかりの土塁の折は実のところ余りよく確認できなかった。冬場の再訪城が必要なようだ。

参考資料、古文書、記録

「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) 解説と付近の地図が詳しい
「坂戸の歴史--坂戸市文化財ガイド」(1992年坂戸市教育委員会編集発行)
「坂戸市史--中世資料編1」(1987年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸風土記--坂戸市史調査資料第1号」(1978/坂戸市教育委員会発行)
「中世の坂戸」(1996年坂戸市教育委員会編集発行)縄張り図が詳しい
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫著/2003 岩田書院刊)  

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡1969年10月1日指定
訪城年月日
2004/10/18
訪城の記録

 <<2004/10/18>> 日高市の田波目の交差点の方向から城山橋の手前を左の高麗川の川原に下りる。まずは南側からの全景を鑑賞するのが常道のようなので高麗川の渓流と、堰を眺めつつ多和目城を鑑賞。川原からの比高は60メートルほどであろうか。丈の高い木が生い茂っているのと、ほかに対象物が少ないせいか、実際の比高よりもはるかに高そうに見えてしまう。この川原は増水していない限り、車も入れるので昼食をとるのに最高のロケーション。もっともまだ時間が早かったので昼飯にはしませんでしたが。
 さて、問題はどのようにしてアプローチして、どこで車を止めて歩いていくかということである。城山橋を渡り、河岸段丘の坂を上り大きく左にカーブしているところに城山小学校がある。その先の城山小前の信号を左折して、西坂戸の住宅地に入る。すると突き当りに砂利道があるので、そののまま進むと狭い丁字路の舗装道路に出る。このあたりは多和目城から伸びている東側の尾根の中腹に当たる。ここでも道の脇に寄せれば、少しの間ならばめったに車が通らないので駐車可能。しかし最も周辺に迷惑がかからず、かつ安全なのは西坂戸の住宅地のすぐ西側の坂戸市の駐車場付の市営グラウンド。
 今日は一応時間があるので全体の地形をよく観察するために、東側からのハイキングコースのような尾根筋から城跡に向かった。緩やかな尾根筋の登り道を300mも行かないうちに左側に土塁に遭遇。この道自体が自然に小口に向かうようになっているらしい。この北東側の土塁と空堀の辺りが一番遺構が確認しやすいかもしれない。主郭の北西側は城山配水池となっていて郭内の約1/4がフェンスで囲まれている。つまり破壊されてる。1972年の事前の発掘調査では、土塁の内側の柱穴と縄文の住居跡が確認されたが、中世の遺物は発見されなかったという。(「中世の坂戸」62頁)また南西側の遺構は真冬を別にすれば進入して確認することがちょっと難しいぐらい籔が酷い。そのあと郭内を少しうろついて一度北側の中腹の道路部分まで降りて、北西部分の尾根筋の状況を観察。
 北西部分は尾根がなだらかに広がりを見せておりこの城郭の地形的な弱点のひとつであることが確認できた。さらにその後、細い里道を左に折れてから、さらに南へ向かうもっと細い里道をすすみ南西側の多和目城へ向かう分岐まで歩いた。つまりほぼ城跡の周辺をぐるっと一周したことになる。車に戻りそこで、あらかじめ田波目の交差点にあるローソンで購入しておいた105円の肉まんを2個を「伊藤園の濃いおーいお茶」と一緒に食べた。ここで、現在販売されている全てのコンビニの肉まん・中華まんを制覇しようと心に誓った(^^)。
 ま、帰りは多分降りられるだろうということで、高麗川沿いの集落目指して幅員3m未満の舗装道路を下った。これが山側に幅1m弱、深さ1mくらいの側溝の脇を抜けていくのでなかなかスリルがあるが予想以上に呆気なく下の集落の道に出てしまった。集落との比高は僅か40mなので....。比高に関しては下から見ても、上から下りてもちょっと錯覚してしまう不思議な城山です。ちなみに3ナンバーはたぶん無理です。側溝に落ちる可能性もあるし、舗装されているとはいっても幅員2.5m位の里道を抜けていくので、曲がる時に脱輪します。こういうとき4駆の軽自動車は便利。(○菱だけど(^^;)

  田波目城 2004/10/18 撮影


 南側の高麗川から見た田波目城の全容、写真で見ると比高も含めてかなり険しそうに見えるが実はそれほどでもない。多分想像するに、樹木の高さ、手前に河川があること、他に高さを比較するものが余りないことなどの理由により峻険に見えてしまうようである。そういう意味では得をしている城跡です。嫌われ者のセイタカアワダチソウも近景のアクセントになり役立っている構図。山頂からの眺望は真冬を除けば殆んど無い。
 <<2004/10/18 撮影 >>
交通アクセス

 車の場合は上記の田波目の交差点から城山橋を渡るコースが無難。駐車するとしたら城跡の北側にある坂戸市の市営グランドが妥当。徒歩の場合には東武越生線川角駅から20分程度。城西大学・明海大学の高麗川沿いの南側の細い道を行くのが一番近道。


<<2004/10/18撮影>>
 田波目城を被写体として捉えると、上記のものと同様に城山橋の下の高麗川の川原から見たこのアングルしかない。城山橋の手前を左の高麗川の川原に下りてまずは南側からの全景を鑑賞するのが常道のようです。
 北東側の小口と見られる部分。肉眼ではもう少し明確に分かるのですが......。内郭側より撮影。外側には空堀状の遺構もあるがかなり埋まっている感じがする。
 北東側の土塁はこのあたりが外側で1.2mぐらいの高さで一番高く見えたが。
 南西側の土塁の高さは内側高いところで1m程度であった。この外側の土塁は堀から3mの高さを有するといわれているが、自然の地形との識別がつきにくい。
 北東部分に残されている土塁。季節によってはよく見ないと見過ごす可能性もありそうな状態で木々と草むらの中に埋もれている。
 南東側に幾分張り出した尾根の先端部分。城郭の一部であるとすれば全体の位置から見て何らかの役割があってもよさそうな地形ではあるが.....。
多和目城の説明版、サムネイルです 北側道路沿いの見やすい説明版。一部の人々にとってかなり有名な市営水道の配水施設のある金網の中の不思議な古い説明版とは別物。多和目城は坂戸市の唯一中世城館跡で埼玉県選定重要遺跡となっている。
 ちなみにさまざまな事情があると思われるが、他の城館跡については市の指定は行われていないらしい。
 田波目城の北側の斜面。このアングルで見ると結構傾斜があることが分かる。この道路部分からの比高は約12mぐらい。下のグランドからだと約20mぐらいというところ。この道をまっすぐ行けば小型車ならば高麗川の集落まで降りられる。ただし1、2箇所を除いてすれ違いは不可能です。
 

 
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