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小代氏館
関連ページのリンク  2004/09/30の日記  2004/10/04の日記
所在地
埼玉県東松山市正代字中形228番地 
歴史と沿革

 小代氏は児玉党の入西資行の次男遠弘が小代郷に移住して小代を名乗ったことに始まるとされている。小代氏はその後肥後国野原荘(熊本県荒尾市)の地頭職となり、文永8年(1271年)蒙古襲来に備えるため現地に赴き、近世初期までその地で勢力があったという。なお、小代氏の名称はそのまま大字「正代」として、この地に今も残されている。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 高坂台地の東南部にあり南側に越辺川方面を眺望できる高台の先端に位置している。また北側1キロには都幾川が流れておりこの高坂台地は二本の川の合流地点に位置している。東側の国道407号線バイパスの脇から見ると竹林となっている東側のあたりは意外と深い溺れ谷の形状を示していることが外形からでも目につく。水田との比高差は7m程度あり、この崖線は北西に曲線を描きそのまま1kmほど先の高坂館跡に続いている。

参考資料、古文書、記録

「東松山市史 資料編第1巻」(東松山市/1981編集発行) 
「東松山の歴史 上巻」(東松山市/1985編集発行)

文化財指定
1976/10/01埼玉県重要遺跡選定(この地にある弘安4年の板碑は埼玉県の指定文化財となっている:下記の写真参照)
訪城年月日
2004/09/30
訪城の記録

 <<2004/09/30>> 法音寺から国道407号線に向かい、これを右折し越辺川にかかる高坂橋を渡ると、右側に低い丘陵地帯が沖積層の水田地帯に飛び出している部分がありこの南東側の先端部分が目指す小代氏館跡である。
 境内地周辺が館跡で周辺に土塁・空堀も残るということであった。しかしここでも残念ながら東側の民家の竹林の中にそれらしき地面の凹凸があるようにも見受けられたが、私有地の宅地内でもあり境内地からの観察の限りでは遺構の確認はきなかった。しかし、南側の崖線の状況、本堂前からの越辺川方面の眺望のよさなどから鎌倉期の中世豪族の館としての名残をとどめているように思えた次第です。
 高台の境内からは、越辺川の川原に自生する金色の薄の穂波が揺れていた。さらに、その遠く向こう側には大嶽山などの奥多摩連山がくっきりとした山並みを見せていた。
<<2004/10/04 再訪城>> 30年ほど前の発掘の時の記録を見ていて、もしかしてと思い立ち雨の中を訪城。予感どおり僅かでしたがまだ残っていました......確かに土塁の一部が(^^) 30年の間に宅地化が進行して土塁の殆んどは消失しているが、奇跡的に少なくとも1箇所は残っていることが確認できた。

 


 青蓮寺本堂で、このあたりが館の西端に当たるらしい。この左手に民家があり、その境の竹林の中に土塁・空堀が残されているのかも知れないが........小銭がなくなり浄財が........(^^)<<2004/09/30 撮影 晴れ>>
交通アクセス

 坂戸市から国道407号線を北に向かい、越辺川にかかる高坂橋を渡ると、右側に低い丘陵地帯が沖積層の水田地帯に飛び出している部分がありこの南東側の先端部分が目指す小代氏館跡。高坂橋を渡ってから4つ目の信号を右折。500m直進すると道がクランクになっているので左折してすぐ右折すると右側に青蓮寺の境内がある。
 東上線高坂駅から徒歩約20分。


<<2004/撮影>>
 この堂の中にある弘安4年の小代氏4代目の重俊の人徳を慕って建立された板碑は埼玉県の指定文化財となっている。
弘安4年銘板石塔婆 埼玉県指定文化財の説明版 2004/09/30撮影 その詳しい説明版ですが、館跡の記述は全くなくそれが少し残念で........(^^)サムルイルになってますので、興味があればご覧ください。
 御霊神社。小代館跡の南側の堤防との間の道路沿いにある。源義朝の長子悪源太源義平は、久寿2年(1155年)叔父の帯刀先生義賢を大蔵館(嵐山町)に攻め滅ぼした時にこの地「小代ノ岡ノ屋敷」を建て、居住した。(「小代八郎行平置文」肥後古記収覧所載)
 その後家臣の小代遠弘が居住し、源義平を御霊と祀り崇敬してきたとされる。
 1974年、1977年と1978年の発掘調査では大きく分けて2箇所の土塁と空堀跡が確認されていることが後日分かったので、現時点で確認できるものかどうか再度現地に赴いた。そのついでに東側の水田地帯から高坂台地の方向を撮影<<2004/10/04 撮影 雨>>
 東側の土塁の一部かどうか.......発掘時の実測図の上ではこのあたりに延長51メートル、幅4.2メートル、高さ0.92メートルの土塁が残されていたということであるが、現在この位置には土塁らしきものはこの程度しか残されていない。
 実測図だと丁度このあたりが、土塁の北西の角になっているが、位置としては多分合っているし、畑と宅地の間の不自然な樹木の列を考えると可能性はありそうだが、どうにも確信がもてない高さ約80cm程度の地面の盛り上り。ただ、この土塁らしきものの延長線上に生えてる樹木の列の手前は明らかに30cm程度低くなっており、空堀の跡といえばそのようにも思える。
 <<2004/10/05>>東松山市の埋蔵文化財センターに確認したところ、やはり空堀だそうです。また土塁と思しき部分も土塁であるとの見解でした。しかし、年代はかなり下ったものであり、小代氏の時代のものは確認できていないということです。
 前の場所よりもはっきりそれと分かる道路脇に僅かに残されている土塁。実測図に照らして位置はあっている。高さ約80cm、延長約6m、幅約1mではあるけれど土塁の遺構であることはどうやら確実な模様である。なおこの場所は青蓮寺の前の道よりも1本北側の世明寿寺に近い道路沿いにあるので分かりにくい。内側は民家の宅地であり車が止めてあった。
 <<2004/10/05>>上記と同様に確認したところ、出土した瓦から判断して残念ながら近世以降の風除けの施設ということでした(^^;
 

 
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