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野本氏館跡
関連ページのリンク  2004/09/30の日記  2004/10/04の日記
所在地
埼玉県東松山市下野本617 
歴史と沿革

 「新編武蔵風土記稿」の野本村無量寿寺の個所に「寺領の外境内1万4千坪。境の廻り四方に堤を築き。堀の跡残れり」としている。また、挿絵図に将軍塚古墳と一緒に無量寿寺の様子も描かれているが、その時点で西側の土塁と堀(水堀のように見える)は明確に描かれているが、すでに南側については山門と柵が表されているのみで土塁・堀は描かれていない。「関東合戦記」では永享12年(1440年)の村岡合戦の時、上杉憲実は野本に立ち寄った記述がある。
 「尊卑分脈」によれば野本氏の祖は滝口基親の子野本基員であり、野本郷に居住し野本左衛門尉と称し、貞永元年(1232年)に亡くなったといわれている。「東松山市史」では、この野本基員の代に館を構えたと推定している。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 松山台地の南縁部分に位置し、南側500メートルに都幾川が流れるが、比高差はほとんどないに等しい。高坂館とは都幾川を挟んで対岸にあり、地図を見てみると直線距離にして僅か1.5kmの近さである。

参考資料、古文書、記録

「東松山市史 資料編第1巻」(東松山市/1981編集発行) 
「東松山の歴史 上巻」(東松山市/1985編集発行)

文化財指定
1974/07/10東松山市史跡指定、1976/10/01埼玉県重要遺跡選定。また、隣にある将軍塚古墳は1960/03/01に埼玉県の史跡に指定されている。
訪城年月日
2004/09/30、2004/10/04
訪城の記録

 <<2004/09/30>><<2004/10/04>> 20年前に刊行された「東松山市史」によれば後世に拡張され二重土塁と空堀を有する広大な規模の館跡であったとされている。本堂の北側に東西90メートル、西側には南北に10m土塁が残され、その北側にも土塁・空堀が確認できたというが、当時の調査資料を参考にして再確認してみたものの、今回確認できたものは本堂北側に僅かに残る土塁だけである。
 西側の土塁は墓地の拡張により消滅し、北側の土塁についても同様に大半は消滅している模様である。なお、外側の土塁についても国道407号線バイパスの工事により、殆んど消滅していると考えられる。道路を挟んで反対側の将軍塚古墳とは大きな違いである。どちらが古くて歴史的な価値があるかといえば、古墳の方には違いないのだが......。

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 本堂裏手北側に僅かに残る土塁らしき存在。高さ約2m、延長20mほどであろうか。東側の野本小学校のフェンス際まで続いていると思われるが、竹林などが鬱蒼としており残念ながら確認できていない。本堂裏手には塚があるとされており、それとの区分も判然としない。「東松山市史」の調査資料と位置的にはおおむね合致している。状態は余りよくなく、残土と思われるものもあるようで、その区別がつかなくなっている。 <<2004/09/30 撮影 >>
 埋蔵文化財センターに確認したところ土塁跡であることが確認できました。<<2004/10/05>>
交通アクセス

 東武東上線東松山駅より徒歩20分。国道254号線では川越方向からの場合熊谷との分岐の手前にある古凍の交差点を左折し、2kmほど先の農村センターの信号を右折。農村センターは野本公民館を兼ねているので、此処の駐車場を借りるのが一番。駐車場からは将軍塚古墳も見える。野本氏館跡のある無量寿寺はこの公民館の裏側、野本小学校の隣である。


<<2004/09/30撮影>>
将軍塚古墳の説明板 2004/09/30撮影 5メートルほどの幅の公道の反対側に位置する将軍塚古墳の説明版。背後の斜面が前方後円墳の円墳部分比高12m以上。館の平坦さを考えれば物見台としての役割は担って当然の位置にある。サムネイルになってます。
 円墳の部分には利仁陣者が祀られており、鞍部のところから登れるようになっている。これはその入り口にある鳥居。鳥居の赤い色が不気味に目立っていた。藤原利仁は延喜年間に武蔵守に任じられ、その子孫である野本氏が先祖を祀ったものであるらしい。
 神社のある円墳への階段。東松山市公式ホームページの文化財の説明によれば、前方後円墳として、埼玉県内第2位の規模で、全長115m、後円部分の高さは15m、前方部分の高さは8m。発掘調査は行われておらず、推定5世紀後半から6世紀前半の築造とのことです。
 戦没者の慰霊碑が方墳の方にあり、やたらと建造物の多い古墳である。慰霊碑には、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争などの地元出身の戦没者の氏名が刻まれていた。
 東松山市の建てた野本氏館跡の標柱。
 

 
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