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アクセスありがとうございます。このページは鉢形城址関係のちょっとした話題を集めたものです。
鉢形城と
深沢川
雨の多い時期でも水量が少ない深沢川の渓谷は、何故あのような深い谷を形成したのか。また果たして、あの僅かな水量で本当に有効な防御機能を持ちえたのか

渓谷の深さと現在の水位
 2004/08/16に訪城した前日は、早朝から午前中一杯にかけて合計にして20ミリ近くのかなり強い雨が降り続いた。しかし、翌日の午後に深沢川の水面に降りて確認すると、水質は透明で濁りは全く無く、増水した形跡もほとんどないように見受けられた。本来の城跡めぐりとは直接の関係がないものの、このような水量で果たしてあのような深い渓谷が刻まれるものなのか、という点についてまず素朴な疑問が生ずるのではないだろうか。
氷河による掘削の跡か
 この点について「寄居町資料集 寄居の自然 地学編」(1983年寄居町教育委員会編集・発行)を見てみると、深沢川には少なくとも数箇所の断層破砕帯が存在し、かつ寄居町の南部のこの地域は古生代、中生代、新生代の地層が複雑に絡み合っていることが記述されている。しかし、河川に対して並行する断層ならば、地盤の隆起などの地殻変動により渓谷が深化することはありえても、この場合は河川を横断する形となっているために、渓谷が深化した理由であるとは考えられない。また、埼玉県自然史博物館担当者の方の見解としては、荒川自体も含めてこの周辺は地形学的に見た場合に全体として谷の形成が川幅に比較して深くなっており、深沢川だけが特別ではないとのことであった。このことについては氷河期の氷河の移動に伴う渓谷の掘削の影響があるのかもしれない。また、近年は荒川も含めて水位の低下が目立つようであるとのことであった。
近年水位も低下
 この水量不足の点について、前出の「寄居の自然」の地勢の項にある深沢川の記述を更によく読むと、「四十八釜で有名なこの川は鉢形城跡付近では深い峡谷をうがち、天然の内堀の役目を果たして荒川に注いでいる。この川は水量が豊かであるとともに支流の数が多いので.......」とある。つまり、この本が書かれた1980年代の初頭は深沢川の水量は少なくとも今よりは豊富であったことをうかがい知ることができるのである。このことは寄居町の教育委員会の担当者の方への電話聞き取り調査でも同様に確認することができた。
 なお、「四十八釜とは」鉢形城址のすぐ脇にある深沢川の大小の深淵の呼称であり1980年代以前においてはある程度著名な景勝(町指定の名勝)であったが、近年の水位の低下、水量の減少により以前とはかなり景観を変えているとのことであった。つまり、少なくとも鉢形城が城として機能していた時代には今よりもはるかに水量が豊かであったことが多分に推測できる次第であり、実質的な外堀として渓谷の深さと相俟ってかなりの有効な防御線を形成していたことは想像に難くないのではないかと考えられるのである。<<2004/08/18>>
 追記 また、深沢川の水量の問題について寄居町の正商工観光課の担当の方も、砂防ダムなどの建設は行われていないにもかかわらず、水量自体が年々減少しているため四十八釜の景勝地としてかつての面影が薄くなっていることも示唆していた。<<2004/08/25>>



田山花袋
と鉢形城
花袋は鉢形城に関連して著名な一篇の漢詩詠んでいる


古城跡空在
 明治・大正期における自然主義文学の大家である田山花袋は、大正7年(1918年)子どもづれで飯能--越生--小川--寄居--長瀞を旅行した時に、鉢形城址に立ち寄りその雄大な眺めに胸を打たれ、次のような五言絶句の格調高い漢詩を詠んでいる。
「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」( 襟帯の山河は好く、雄視す関八州、古城の跡は空しくありて、一水なおも東にながる) ちなみに冒頭の「襟帯」(きんたい)とは広辞苑によれば山と川の喩えだそうです。また、蛇足ながら「一水」とは具体的には荒川の流れのことです。
 この漢詩は時代は下って約40年後の昭和30年8月に、郷土史家中里清、内田香坡氏らの働きかけで武者小路実篤に揮毫を依頼して写真のような詩碑に刻まれることとなった。( 2004/08/25 寄居町役場商工観光課さまより情報提供および「寄居町史通史編」を参照、詠み方については「かず@川崎」さまよりご教示 )



田山花袋
と鉢形城
花袋は鉢形城について著名な一篇の漢詩とは別に、平易な文体の紀行文を上梓している


東京近郊 一日の行楽
 また田山花袋はこのときの体験を「東京近郊 一日の行楽」(大正12年6月 博文館刊)と題する紀行文に認めている。一般に入手することが難しいと思われますので、以下に鉢形城址に対する最大級の賛辞が含まれていることもあり、その全文を現代文に改め引用します。なお、(  )内は管理人が推定して付したものです
 「荒川の上流に寄居という町がある。そのそばに鉢形の城がある。この城址は歴史上から見て、やはり重要なプンクト(ポイント)である。点である。忽諸(こっしょ=疎か)にすべからざる地点である。
 それは、関東の勢力の北に向かって開いた唯一の肝要な防御地点のおもなところであった。であるから関東古戦録などを見ると、この城はいつも二つの勢力の争奪地点になっていた。北条上杉は殊によくこれを争った。
 それも理である。北からする勢力は、どうしてもこの城を閑却(無視)しては、南に進むことはできないような形になっていた。北から南に進もうとすると、その軍の右側面は忽ちこの城から襲われるような形になっていた。しかも、その邪魔になる城を攻略するのは、容易なことでは出来なかった。上杉(謙信)も武田(信玄)もいつも此処に来て、北条の軍に食い止められた。
 その城址は上武線(注1)の寄居駅から、荒川をわたって行ったところに今も依然として残っている。なるほど好い地形だと頷かれた。 右にはずっと関東平野がひらけている。熊谷乃至深谷から、松山(東松山市)を経て川越に出てゆく路(注2)は、丁度右に一目に見わたされる。それより少し手前に、丘陵に沿って越生から飯能に出てゆく路(県道294号線か)がある。北からする軍勢はどうしても、この二つの路によるより他にしかたがなかった。そしてこの二つの路は、この城址から明らかに展開されて見えた。
 関東の古城址の中で、もっとも研究に値するのは、この鉢形の城址である。私はその鉢形城址を見て、舟で本畠村(注3)あたりまで下った。この荒川の谷は頗る風景に富んでいた。夏は鮎が盛んに獲れた。船から振り返ってみると、笠山(注4)が左に右の山との間を、荒川は大きく谷をつくって、関東平野へと流れ落ちて来ているのでだった。そしてその郡山の上に、城壁のような両神山(注5)の雄姿が指差された。段々下るにつれて、川は次第に広くなって行った。川には船の水車が幾つとなく並んでかけられてあった。水はおりおり岸に偏って碧い深い淵を湛えていた。」


( 花袋紀行集第二号「東京の近郊」東京の周囲より( 博文館1923年刊行 県立久喜図書館、さいたま文学館などで所蔵 ) 〜 この資料の情報入手にあたり埼玉県立久喜図書館さまに大変お世話になりました )
 この項の参考資料「川本町史 通史編」(川本町編集発行1989年刊)
(注1)現在の秩父鉄道。
(注2)秩父街道、国道254号線と思われる。
(注3)本畠村
 明治21年の町村合併で本田村と畠山村が合併し本畠村となり、戦後昭和30年に武川村との合併により川本町へ。ちなみに畠山村とは鎌倉初期の著名な中世武士の棟梁である畠山重忠の本拠地、また武川村とは鉢形城落城後この地の警備に当った武田氏の旧臣武川衆にちなんだ名称である。平成の市町村合併の喧騒の中で、またかつての合併の歴史がそうであったように地名に込められた地域の一つの歴史が失われてゆく......。
(注4)笠山
 比企郡小川町腰越にある標高837mの奥武蔵の一番北側の山で、石灰岩の採掘により武甲山の独特の山頂が失われた現在では三角形の山容が特に目立つ。自分もだいぶ以前になるが三度ほど登頂しているが、周囲との比高が700m以上ありそれなりにきつい登り.......所要時間は往復5時間もあれば.......日帰り可能。楽をするなら堂平山のあたりに車を止めていけば往復で二時間もかからないが......。以前は家内の実家の2階の西側の窓から手に取れるように間近に見えたが.....。
(注5)両神山
 秩父郡両神村、大滝村、小鹿野町に跨る鋸の歯のような独特の岩峰が特徴的な標高1723mの奥秩父の山岳。やはり以前に一度だけ登頂、尾根筋は岩峰の間をめぐるので結構怖い.......日帰りはちょっと無理なので一泊コース。

 

 
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