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畠山重忠館
関連ページのリンク  2005/04/14の日記  菅谷館       
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合26
所在地
埼玉県大里郡川本町大字畠山字八幡1970付近
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」や「武蔵郡村志」の畠山村の記述によれば畠山重忠の館跡としての伝承を紹介している。また近年の史跡公園整備などに伴う発掘調査により、北側に薬研堀の遺構が確認されている。
 秩父郡の吉田町を本拠地とする秩父氏の嫡流である一族が男衾郡畠山に居を構えたのは、武蔵国留守所総検校職である秩父権守重綱の孫に当る重忠の父畠山庄司重能の代とされている。重忠から数えて三、四代前にさかのぼるものを含めると同族には豊島氏、葛西氏、河越氏、江戸氏、稲毛氏、榛谷氏などがおり、北条氏にとっては決して侮ることのできない大きな勢力を形成していたと考えられる。重忠は当初はこの地を本拠地としていたが、その後菅谷の館に本拠地を移すこととなったようであり、討ち死にを遂げることとなった二俣川の合戦の際には元久2年6月19日菅谷館から出陣したと吾妻鏡には記されている。
 「吾妻鏡」の記述によれば、「数万人(実際には数千人ではないかと)対135人(非常時を除けば鎌倉武士の一族の動員力はこの程度が妥当ではないかと考えられ、前記の同族や中小の武士団を糾合すればかつて三浦氏を攻めたときのように最大で3000人位にはなるのであろう)」という一方的な二俣川合戦の後、重忠の軍勢が百余人であったことなどから謀反の疑いは晴れたとされている。しかし、時を同じくして相模の重忠の従兄弟に当る榛谷四郎らの同族が三浦義村らにより殺害されている。このことからも、時政の子である北条正範の死をめぐる畠山一族と北条時政の後妻牧の方、平賀朝雅( 牧の方の義理の息子 )との確執も含めて、明らかに北条氏側の有力御家人排除の謀略性が極めて強い事件であったと考えられるのではないだろうか。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■館跡の南西1.5kmを旧鎌倉街道上道が関越自動車道にほぼ並行する形で通過している。館の規模は発掘調査などにより長辺で100メートルの規模であることが推定されているようであるが、視認できる部分の土塁の延長は東側で約50メートルほどである。
 館の北東500メートルには畠山重忠が創建したと伝えられる万福寺があり、更にその北側には古墳時代から平安時代にかけての集落跡が存在し寺の南東側には開元通宝(621年)から宣徳通宝(1433年)年間での古銭2626枚が出土している。
 このようなことから考慮しても、当地が畠山氏のゆかりの地である可能性は高いものと考えられている。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「川本町史 通史編」(1989/川本町)
「川本町の文化財」(1985/川本町教育委員会)
「畠山館跡」(1989/川本町教育委員会)
「畠山重忠公」(1977/畠山重忠公史蹟保存会)
「畠山重忠墓」(1984/川本町教育委員会)   

文化財指定
伝畠山重忠の墓は埼玉県史跡、館跡は県選定重要遺跡に指定されている。
訪城年月日
2005/04/14
訪城の記録

( 2005/04/14 )
 本当に馬を担ぎ上げたかどうかは別として...地元川本町の郷土を代表する偉人には違いなく
 いわずと知れた畠山重忠の本拠地である旧畠山村にある畠山重忠史跡公園。北側の国道140号線の方から荒川を渡って真直ぐに史跡公園まで繋がっている道ができたので、たいへん便利になったようです。ちなみに新しく完成した荒川にかかる橋の名称は立派な石のプレートに「重忠橋」と刻まれていました。この重忠橋はその名のとおり、ほとんど史跡公園に向かうための橋のようなものであり、そういう意味でも重忠は郷土を代表する歴史的有名人なのでしょう。
 一ノ谷の合戦で活躍したとされる馬を背負う畠山重忠の銅像が駐車場の正面に位置し、畠山重忠の墓と伝えられる五輪塔もあります。ここではすでに桜は散っていて、その花びらが雪のように地面を覆っていました。ここも今度の団体見学見学のコースに入れてあるので、周辺の状況もざっとチェックして、このあと昼食予定の店の場所を確認して帰路へ。しかし、数日後の見学当日はこの場所について説明をする人間ががいないもので、自分による所要時間約十五分のかなりいい加減な史跡解説となってしまったのでありました。

Best Shot?
畠山重忠の銅像 画像クリックで拡大します


 昭和63年4月に没後800年の記念式典とともに建造された銅像。「源平盛衰記」に記された一ノ谷合戦鵯越の有名な逸話に基づく、鎌倉武士の鑑と謳われる愛馬三日月を担いだ畠山重忠の勇姿。
 その当時全国の畠山一族の後裔の方々を中心とする多くの人々の浄財により完成したと記念碑に刻まれていました。
 ( 2005/04/14 撮影 晴 )
交通アクセス

・秩父鉄道永田駅より南へ徒歩25分 MapFan Web の案内図です


( 2005/04/14 撮影 )

■最近新しく完成したその名も「重忠橋」と命名された荒川にかかる堰の機能も有した橋。 。
 ちなみに国道140号線の交差点の名称は重忠橋北と書かれているので至って分かりやすい。
■言われなくても分かりますけど... 畠山重忠史跡公園の看板。
■辛うじて残っている東側の土塁ですが、土塁自体は戦国時代のものだということです。左側が館内。
■東側の土塁の反対側。高さはだいたい40センチメートル前後というところです。
■西側の土塁部分とおもわれる叢。左側が館内で、画面右側の西側は民家の宅地となっています。
■なんとなく痕跡が残る北側の土塁のあった場所で、発掘調査によりこれに並行する形で堀状の遺構の存在が確認されています。この土塁も以前はもう少しはっきりとしていたようですが、大勢の人がその上を歩くので殆ど平坦になってしまったようです。
■いろはガルタの文化財普及啓蒙活動...そういえば鉢形城にも同じようなものが。
■畠山重忠の墓との伝承のある五輪塔など一族の墓がこの建物の中に収められています。
 格子の扉の脇に設置されたボタンを押すと解説のアナウンスが流れます。
■史跡公園の説明版。
■畠山重忠の墓所も、館跡もいずれも伝承の域を出ないものらしいのですが、畠山の地名の由来が示すとおり平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した畠山一族の発祥地には相違ないようです。
 
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