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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  吉井陣屋表門 吉井陣屋のバナー 吉井陣屋長屋
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 矢田陣屋・矢田城 矢田代官所
所在地
 群馬県高崎市吉井町吉井(旧吉井町)
歴史、人物、伝承

 城郭としての存在の有無にかかわらず領地支配としての変遷を辿るとするならば、凡そ次のような経緯となるものと考えられる。内容は主として「吉井町誌」の記述・史料からの引用である。

山内上杉氏時代
 上野国は関東管領山内上杉氏の本領であり、その地理的な条件からは山内上杉氏の直轄領あるいは長根氏、小林氏などの有力な在地領主層の支配が及んでいたものとも推定されるが、これらの事柄を示すような具体的な史料は残されていない。
 その後関東管領上杉憲政は天文20年(1551)3月10日の神流川合戦において北条氏康に敗北を喫し、北条氏の攻勢と家臣団・国人衆の離反などにより本拠地である平井城の防衛さえも危うくなり越後の長尾景虎の庇護を求めて逃亡した。このことにより吉井地域は一定の間は後北条氏の影響下に置かれたものと推定される。しかし、永禄3年(1560)の長尾景虎の越山(関東侵攻)により、後北条氏勢力は当分の間西上州方面からの後退を余儀なくされた。

長野氏時代
 上杉憲政が不在となったあとの西上州では、長野業政(上杉氏被官の有力国衆)の健在時には西上州一揆の盟主として積極的に小幡氏、安中氏、和田氏、金井氏、依田氏、羽尾氏など他の有力国衆との姻戚関係を結び、越後上杉氏の軍事的支援を背景として甲斐武田氏、後北条氏の進攻を食い止めていた。
 しかし、業政の死後間もなく永禄4年(1561)には小幡氏の一族内紛を契機とした武田氏の進攻が開始され、箕輪城の落城の経緯を記した「箕輪軍記」(「上野国群馬郡箕輪軍記」とも)にも「吉井・河内・上野・白倉・塩川・天引・馬庭・本郷・小幡、右9か所の小城共討取申術也」と記されているように長野氏の勢力は大きく後退して行った。永禄6年(1563)頃とされる甲斐武田信玄による本格的西上州攻略の開始によって、吉井地域(吉井城)が当地に所在していた城郭と共に武田氏の支配下に置かれたことなどが推定されるが、当該城郭の所在等に関する史料は見当たらない。

武田氏時代(1563−1582)
 武田氏による支配は凡そ20年近くに及んだが、吉井地域に所在したと推定される城郭の所在地および城主については全く不明である。

後北条氏時代(1582−1590)
 武田氏の滅亡後は一時織田氏家臣の滝川一益が上野を支配したが、織田信長の死去により再び後北条氏の支配が浸透した。
 「群馬県多野郡誌」「吉井町誌」「日本城郭大系」などの記述を総合すれば、後北条氏の筆頭家臣である松田尾張守憲秀(「吉井町誌」などでは尾張守または康秀とも)の知行地であり、長野氏時代から続くと見られる小規模な城郭が存在していたことも示唆されているものの、その論拠については「大日本地名辞書」(吉田東伍)に「松田尾張守康秀が吉井城にあったともいうが、その詳細は不明である」と記されているのみであり確実といえるような史料は見当たらない。

菅沼氏時代(1590−1600)
 「吉井町誌」の記述によれば、吉井の地に菅沼小大膳亮定利(−1602)が入城する以前には一面の塚原であったが、城を取立て新しく城下町を整備したといい、その知行石高は1万6千石あるいは2万石ともいわれている。
 しかし徳川家康の関東入府時の江戸城に関する逸話と同様に、当地に関する荒地の状況については割引いて捉える必要も感じられる。なお吉井は当初矢田郷に属し戦国時代の末天正18年(1590)に新たに分郷された旨が地元旧家の「堀越家系図」に記されているという。また、山崎一氏によれば吉井の地にはそれ以前から城郭が存在していたとの指摘もなされている。(菅沼氏時代の「吉井城」については、吉井陣屋の南側一帯と推定をされている)
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦では定利は吉井城から出陣し、その戦功により養子松平忠政(徳川家康の孫)は同年あるいは翌6年に美濃加納城6万石に移封され、菅沼氏の吉井城は慶長15年(1610)に廃城となったという。

安藤氏時代(1610−1619)
 安藤対馬守重信が上州吉井の地5千石を賜ったとされるが、陣屋等の関係については不明。(「吉井町誌」より)

堀田氏時代(1682−1698)
 堀田豊前守正休が上州多胡・緑野・甘楽・武州埼玉の4郡にて1万石を賜り、吉井を居所とした。(「吉井町誌」より)ただし、陣屋等の関係については不明。

鷹司松平氏時代(幕末まで続いた「吉井陣屋」の時代、1752頃−1868)
 宝永6年(1709)上野4郡、上総2郡7千石を知行されていた松平(鷹司)信清が上野4郡内に3千石を加増され、領地支配等のために旧吉井城南東矢田川左岸の台地上に矢田陣屋が置かれた。
 そののちの宝暦年間(1751−1764)に至り、より利便性の高い現在の吉井陣屋へと転居して矢田陣屋は廃城となったものとされている。なお「吉井町誌」の記述によれば、松平氏の陣屋移転は宝暦2年(1752)との説もある。
 藩主である鷹司松平氏は江戸定府のため、藩士の大半は江戸屋敷(守赤坂薬研坂)に在住することとなり、矢田陣屋、および後の吉井陣屋ともに代官による領地支配が行われた。鷹司松平氏の支配はそのまま幕末まで継承され、吉井陣屋も拡張存続し明治維新を迎えた。

確認可能な遺構
 櫓台跡?
文化財指定
 1973年5月18日 旧吉井町指定重要文化財
訪城年月日
 2008年1月5日 10時05分から10時45分
訪城の記録 記念撮影

( 2011/03/06 )記述
 3年前から絶不調の兆候
 3日前に続いての群馬城館探訪。昨年末とうとうルビコン川ならぬ神流川を越えてしまった。こうなると上州への出陣にもはや歯止めが利かず。 うずたかき更新未処理の山は放置されたまま。このため未処理の城館跡の怨念かどうか分らぬが、出がけからどうも体調が思わしくなく。朝から晴天のはずがどんよりとした圧曇り。加えて寒気がするようなしないような。おまけに息苦しいようなだるいような。ともかく気持ちが悪いような倦怠感が体中に蔓延。
 その後天候が急速に好天に回復したものの、体全体の倦怠感が抜けきれず仕舞いに。平地を歩いていても直ぐに息切れが発生。予定に入れていた山城1か所を冒頭から敢え無くキャンセルすることに。
 本来は吉井町関係の資料収集が第一の目的。そのついでにいくつか城館跡に立ち寄れればといったような極めてうテンションの低い今回の出陣。手はじめに郷土資料館に寄って資料の物色などを。ここで4点ほどの資料を収集。この寒い新年早々から来館者などがそうそう来るはずもないようで展示室の照明が消えておりました。
 立派な構えの陣屋門自体は郷土資料館などの公共施設が集まる敷地に移築されたもの。陣屋跡北西の少し離れた個所には吉井藩当時の武家長屋も現存。4世帯の方が現在も居住されているとのことらしく。
 ついでに図書館にも立ち寄ってみると施設の狭さに対して資料構成自体は充実しているという好印象も。ただし書架間の有効幅が80センチなので、思わず単位面積当たりの荷重計算などをしてしまうのでありました(笑)

「吉井陣屋表門」 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉井陣屋表門
( 2008/01/05 撮影 )
訪城アルバム
櫓台跡?
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 春日社跡
 鷹司松平家は藤原氏の流れを汲み、その氏神である春日神社を勧請し陣屋の南西に祀った。神社は明治41年に小学校西側の八幡宮に合祀され、現在は吉井藩治址碑(1917建立)などが設置されている。旧吉井町指定史跡。
凸2 長屋造りの民家
 幕末記の陣屋拡張時に建設されたと推定されている武家長屋で、間口は20間、奥行4.5間のきぼで、現在でも4世帯のお宅が居住されているとのことです。(「吉井町の文化財ガイドブック」より)
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「国別城郭・陣屋・台場・要害事典」(西ヶ谷 恭弘 編/2002/)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「箕輪城と長野氏」(近藤義雄 著/2011/戎光祥出版)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収

「箕輪軍記」(1976/関東史料研究会)
 ⇒近世初期に記されたと考えられている軍記物で、長野氏の滅亡、箕輪城の落城の経緯等について記されている。

・2011/03/06 HPアップ
・2011/03/07 画像追加、資料説明追加
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