凸上野蔵屋敷 永禄6(1563)年正月、武田信玄は3万5千の軍勢を率い西上野へと侵攻し、多勢を以て一郷山城、多比良城(新堀城)を攻略した。その勢いを以て吉井(⇒旧吉井城か)、河内(⇒河内城か)、上野を始め白倉(⇒白倉城か)、塩川(⇒塩川城か)、天引(⇒天引城か)、馬庭(⇒馬庭城か)、本郷(⇒本郷城か)、小幡(⇒国峰城か)など9か所の小城を攻略すべく軍議を諮った...とされている。 これは、あくまでも滅亡した長野氏の視点に立って近世初期に編纂されたといわれる「箕輪軍記」による経緯であり、その後の箕輪城の落城時期などに史実との食い違いの見られることも指摘されており、黒田基樹氏によれば、武田信玄による一連の西上野進攻は永禄4年に始まり、永禄9年9月に至り箕輪城の長野氏を滅亡させた旨を明らかにされている。 しかしこの上野がこの上野城に合致するかどうかについては定かではなく、後世の代官屋敷、或いは蔵屋敷などであることが示唆されている。上野村は幕府直轄領の時期を経て、天和2年(1682)から元禄11年(1698)の間は、堀田豊前守正休が上州多胡・緑野・甘楽・武州埼玉の4郡にて1万石を賜り吉井を居所とした。(「吉井町誌」などより)その後は旗本河野氏の采地となり幕末へと至った。なお、この堀田氏について堀口氏と記述するものがあるが、これは明らかな誤植であろうと思われる。 (「日本城郭全集3」「甘楽町史」)別名を上野蔵屋敷(「甘楽町史」)、上野陣屋(「日本城郭大系」)とも。
( 2011/05/11記述 ) 凸 感動的な土塁 西辺を中心として高さ4mから5mにも及ぶ重厚な質感を伴う土塁遺構が健在で、延長約70m土塁は正に必見です。この土塁のラインは実にナチュラルで美しく感じられました。然も住宅地の表通りから、通りすがりに拝見することが可能です。探訪以前にはこれだけ見事な外観を有する土塁遺構と遭遇できるとは思いもよりませんでした。暫しの間、ただひたすら見とれていたのでありました。 また土塁の外側には水堀跡といわれる農耕地の区画も現存しています。また東辺小口と推定されている箇所には、時代背景は別として枡形の石垣も所在しておりました。なお、2010年末のミニオフ時にも再訪しましたが、感動的な土塁遺構は依然として健在でした。その印象からは戦国期の方形館を代官陣屋等として一部改修したものと捉えたいと思います。
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