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群馬県甘楽郡甘楽町の城館索引へ戻る 上野城 上野城のバナー 上野城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/13のブログ  2011/12/30のブログ 長畝の砦 八幡山の砦
所在地
 群馬県甘楽郡甘楽町
歴史、人物、伝承

上野蔵屋敷
 永禄6(1563)年正月、武田信玄は3万5千の軍勢を率い西上野へと侵攻し、多勢を以て一郷山城、多比良城(新堀城)を攻略した。その勢いを以て吉井(⇒旧吉井城か)、河内(⇒河内城か)、上野を始め白倉(⇒白倉城か)、塩川(⇒塩川城か)、天引(⇒天引城か)、馬庭(⇒馬庭城か)、本郷(⇒本郷城か)、小幡(⇒国峰城か)など9か所の小城を攻略すべく軍議を諮った...とされている。
 これは、あくまでも滅亡した長野氏の視点に立って近世初期に編纂されたといわれる「箕輪軍記」による経緯であり、その後の箕輪城の落城時期などに史実との食い違いの見られることも指摘されており、黒田基樹氏によれば、武田信玄による一連の西上野進攻は永禄4年に始まり、永禄9年9月に至り箕輪城の長野氏を滅亡させた旨を明らかにされている。
 しかしこの上野がこの上野城に合致するかどうかについては定かではなく、後世の代官屋敷、或いは蔵屋敷などであることが示唆されている。上野村は幕府直轄領の時期を経て、天和2年(1682)から元禄11年(1698)の間は、堀田豊前守正休が上州多胡・緑野・甘楽・武州埼玉の4郡にて1万石を賜り吉井を居所とした。(「吉井町誌」などより)その後は旗本河野氏の采地となり幕末へと至った。なお、この堀田氏について堀口氏と記述するものがあるが、これは明らかな誤植であろうと思われる。
(「日本城郭全集3」「甘楽町史」)別名を上野蔵屋敷(「甘楽町史」)、上野陣屋(「日本城郭大系」)とも。

確認可能な遺構
 土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月13日、2010年12月30日
訪城の記録 記念撮影

( 2011/05/11記述 )
 感動的な土塁
 西辺を中心として高さ4mから5mにも及ぶ重厚な質感を伴う土塁遺構が健在で、延長約70m土塁は正に必見です。この土塁のラインは実にナチュラルで美しく感じられました。然も住宅地の表通りから、通りすがりに拝見することが可能です。探訪以前にはこれだけ見事な外観を有する土塁遺構と遭遇できるとは思いもよりませんでした。暫しの間、ただひたすら見とれていたのでありました。
 また土塁の外側には水堀跡といわれる農耕地の区画も現存しています。また東辺小口と推定されている箇所には、時代背景は別として枡形の石垣も所在しておりました。なお、2010年末のミニオフ時にも再訪しましたが、感動的な土塁遺構は依然として健在でした。その印象からは戦国期の方形館を代官陣屋等として一部改修したものと捉えたいと思います。

上野城の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
上野城の西辺土塁
( 2011/12/30 撮影 )
訪城アルバム
東側小口付近
西辺の土塁
凸1 小口付近
 東側小口付近の土塁の断片です。お住まいの方のお話を聞くところによりますと、大分以前にはこの東側の土塁も健在であったとのことでした。
凸2 西辺の土塁
 現在は概ね方形館の西辺部分を中心に残存している土塁遺構ですが、その佇まいは圧倒的な存在感を顕示しています。(2008年12月13日撮影)
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史
「甘楽町史」(1979/甘楽町)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「箕輪軍記」(1976/関東史料研究会)
 ⇒近世初期に記されたと考えられている軍記物で、武田氏の西上州進攻、長野氏の滅亡、箕輪城の落城の経緯等について記されている。


・2011/05/11 HPアップ
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