群馬県内の城館跡目次
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月26日のブログ 不動山城 仁居谷城
所在地
 群馬県渋川市白井
歴史、人物、伝承

白井長尾氏の本拠地
 「ぐんまの城30選」などによると、享徳3年(1458)鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺したことに起因する享徳の乱当時において、山内上杉氏家宰であった長尾景仲の時代に築城されたといわれている。このあと当城は白井長尾氏の本拠地として継承されてゆくこととなる。
 景仲のあとは長尾景信が継承したが、文明8年(1467)景信の死後は山内上杉氏家宰が総社長尾忠景へと変わった。このため白井長尾氏嫡流である長尾景春は反乱を起こし、一時的に白井城は越後上杉氏および山内上杉方の支配する所となった。その後長尾景春は各地を転戦したが最終的に太田道灌などと戦い敗北を遂げた。なお、景春は永正2年(1505)には白井城に復帰したともいわれている。
 白井城の地はその後景春の子である景英、孫の景誠に引き継がれたが、家臣の謀反により暗殺されたため、箕輪城主である長野業政が、総社長尾家から長尾顕忠の嫡子である憲景を後継者とした。
 しかし、そののち天文年間には後北条氏の上野侵攻に伴い長尾憲景はその影響下に置かれたが、永禄3年(1560)の長尾景虎の越山により、再び上杉方へと復した。しかし、甲斐武田氏の西上州侵攻により、永禄10年(1567)には信濃先方衆の真田幸隆・信綱父子により白井城は攻略され、長尾憲景は利根川東岸の八崎城方面へと脱出した。以後天正10年(1582)の武田氏滅亡の時期まで武田氏の支配下に置かれていたものと考えられる。
 武田氏の滅亡後には一時的に織田氏の影響下に置かれたが、織田信長の死去により、再び後北条氏の影響下に置かれることとなり、長尾憲景は漸く白井城へと復帰したものと考えられている。憲景の跡を継いだとされる子の輝景が城主となったが、豊臣秀吉の関東侵攻の際に落城を遂げたものとされている。
 その後改修が加わり近世初期まで使用され本多氏、西尾氏、本多氏と目まぐるしく城主が変遷したが、元和9年(1623)本多紀貞に後継が無く廃城とされたという。なお現在残存している城郭遺構は、あくまでもその最終形態のものとされており、戦国期の様相は不明である。
 なお、黒田基樹氏の下記の論考によると、白井長尾氏は後北条氏滅亡後には上杉家家臣となったという。

確認可能な遺構
 郭、堀跡、土塁、桝形、櫓台ほか
文化財指定
 渋川市指定史跡
訪城年月日
 2017年11月26日 12時35分から14時00分
訪城の記録 記念撮影

 見どころは本丸周辺
 晩秋の日没はかなり早いので、午後1時までにこちらに到着する予定であったが、探訪が順調に進んだことにより早めの到着となりました。本丸の付近に駐車することも可能なのですが、元々徒歩により北側の外郭方面から順に回遊して白井宿方面へと向かうルートを想定しておりました。また時間にも多少の余裕が出てきたこともあり、城跡外郭北側の体育館に駐車し徒歩にて本丸方面へと向かうことになりました。一般に城域の広大な城館の場合には、経験上車で直行してささっと見学をしたりしますと、必ずと言ってもよいほどに結構見落としが発生したりします。
 さて、そうは言っても宅地化が進んでいる北半分くらいにつきましては、残念ながら余り城跡としての名残りを感じ取ることができません。それでも北郭の東端に所在している城山不動尊(櫓台ともいわれている)の辺りからは、「三の丸」の堀跡を始めとして徐々に城跡らしい景観が目に入ってきました。尤も三の丸、二の丸の一帯は堀跡部分を除いて畑地が広がっていますが、さらに二の丸の堀跡を過ぎ本丸の手前辺りまで近づきますと、本丸桝形と共に整備された規模の大きい堀跡が目に入り、テンションも上がり自然と笑みが零れてくるのでありました。
( 2018/12/12 )記述
白井城本丸堀
白井城本丸堀 −画像A−
( 2017年11月26日 撮影 )
凸いちおう「三日月堀」の形状をしておりますが、15年ほど武田氏の影響下に置かれていたとはいえ、支配勢力の変遷が激しく、近世に入ってからの改修も加わっている可能性も想定されることから、あくまでもその詳細は不明です (^^ゞ

白井城の桝形
白井城の桝形 −画像B−
( 2017年11月26日 撮影 )
凸本丸桝形を北側から撮影したものです。子の石垣については太田道灌の助言があったという伝承もありますが、その石垣の形状と積み方からは16世紀末から17世紀初め頃と考えられているようです。

白井城の解説板
白井城の解説板 −画像C−
( 2018年月日 撮影 )
凸史跡の指定を受けたのは意外に新しく、平成16年3月に当時の子持村の史跡指定を受け、合併後には渋川市にそのまま継承されています。

白井城の桝形石垣
白井城の桝形石垣 −画像D−
( 2017年11月26日 撮影 )
凸近世初期頃に改修を受けたと考えられている桝形門の遺構とされているようです。

白井城本丸北東部の堀跡
白井城本丸北東部の堀跡 −画像E−
( 2017年11月26日 撮影 )
凸白井城の本丸から見て北東方向に所在している空堀と土塁の様子です。本丸切岸を始めとして堀や土塁の規模の大きさに目を見張りますが、戦国期白井城の様相をそのまま伝えているものであるのかについては分かりません。

白井城付近の航空写真画像
白井城付近の航空写真画像 −画像F−
( 2017年11月20日 加工編集 )
凸いつものように、戦後間もない時期に当時の在日米軍が撮影した航空写真画像に加工を加えたもので、本丸以下の各郭群とこれを取り巻く堀跡の様子が明瞭に撮影されています。なお、方位は真上が北では無く、約30度ほど西方向に傾きますので、真上は概ね北北東の方角となっております。

訪城アルバム
金毘羅郭跡
凸1 金毘羅郭跡
 かつての金毘羅郭跡ともいわれている金毘羅宮の小祠で、玄棟院境内の南西部に所在していますが、本丸方面からは大分離れていることもあり、こちらの方まで足を運ぶ方は少ないように思われました。

西側を南流する吾妻川
凸2 西側を南流する吾妻川
 城跡の西側には吾妻川の急流が広がり、今でも城跡の台地をじわじわと侵食しているようで、このためこの方面では比高差約25mの垂直に近い絶壁が形成されておりました。
 なお、この時には撮影しておりませんが、画像上段に架かる吾妻橋方面から遠望すると如何にも「崖城」らしい景観を撮影できそうなことに気がつきました。なお、画像の上方の山は子持山です。
 管理人の場合けっして高所恐怖症ではありませんが、足の裏がむず痒く感じられ、本能的にこれ以上崖際に近寄るのは憚られました (^^ゞ

北郭
凸3 北郭
 もしもこうした石柱の表示が無ければ、ごく普通の耕作地のようにも見えてしまいますので、実に有難い配慮であります。

城山不動尊
凸4 城山不動尊
 城跡の北東部に所在している塚状の独立地形で、現在この頂部には城山不動尊が祀られておりますが、総郭との境界部に所在しており、かつての櫓台の可能性が指摘されています。

三の丸堀跡
凸5 三の丸堀跡
 おおむね東西方向に掘削され、北側部分を隔てています。このように耕作地化が進み大分埋もれているようにも見えますが、三の丸に伴う堀跡です。なお、画像の右上に写りこんでいるのは子持山です。

三の丸
凸6 三の丸
 三の丸の郭跡も全般的におおむねこうした耕作地が広がっております。

凸7 二の丸堀跡
 この西寄り部分では、このように埋没と耕作地化が進んではいますが、おおむね堀跡としての形状は維持されているように思われます。

二の丸堀跡
凸8 二の丸堀跡
 東寄りの部分では前記の西寄り部分とは異なり、かなり原型に近い堀跡遺構が遺されているように思われます。

<b>二の丸の石柱</b>
凸9 二の丸の石柱
 画像の両側が二の丸で、画像の正面には本丸の土塁の壁面が見えています。

凸10 本丸堀跡
 本丸と二の丸を隔てている東西方向の堀跡の西寄りの部分です。堀幅、深さは二の丸のものよりも規模が大きいことが分かります。また、この画像からもはっきりと分かるように、本丸側には高さ約3m以上の土塁が普請されて、その分堀底からの高さも増していることが確認できます。

本丸桝形
凸11 本丸桝形
 後北条氏の滅亡以降の近世に改修されたと考えられている本丸の桝形遺構です。

笹郭
凸12 笹郭
 本丸南側の笹郭と呼ばれている小郭で、白井城の南端部に相当します。画像は、本丸の土塁上から俯瞰しています。

凸13 本丸の土塁
 本丸は吾妻川の浸食により消失しているとも考えられる西側部分を除いて、このような土塁により囲繞されています。なお城跡の西側部分には土塁の形跡は見当たりませんが、「画像2」のような崖線部を形成していることから、仮に土塁が存在しなくとも城としての防御性に大きな影響は無かったものとも考えられます。

本丸南東の堀跡
凸14 本丸南東の堀跡
 本丸の南東部を防御している堀で、さらにその南東方向に向かって南郭、新郭と増設されていった模様ですが、それらの部分では宅地化が進行しており、城跡としての明確な痕跡を辿るのは困難となっているようです。

土塁
凸15 土塁
 前項の画像の個所を土塁上から撮影したもので、画像の左下には宅地が迫っており、現存する城郭遺構としての南東境界部分になります。

白井宿
凸16 白井宿
 白井宿の南端部付近で、かつてはこの南北方向に伸びる白井宿に並行する形で、東側の防御線である「東遠構」が所在していた模様です。
 またこれと同様に現在は社会体育会館と源空寺間が所在する間に「北遠構」の遺構が所在していたとされていますが、現在は市道が貫通しており、その当時の面影は失われているように思われました。

紅葉
凸17 紅葉
 白井城の城下町、さらに白井宿としての観光地でもあり、折りから植樹されたカエデの紅葉が夕日に照り輝いておりました ^^
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「定本日本城郭事典」(西ヶ谷 恭弘 編/2000/秋田書店)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「お城の地図帳」(2010/辰巳出版)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
「関東の名城を歩く 北関東編」(2011/吉川弘文館) ⇒ 出版年も比較的新しく縄張図が掲載されている。
「ぐんまの城30選」(2016/上毛新聞社) ⇒ この時点では最も出版年が新しく縄張図も掲載され前項の資料と共に併読しておくと役立つ。
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版) ⇒ 所在地住所表記にやや誤りがあり情報もやや古くなっている。
「関東一円古城址ハイキング」(2016/新ハイキング社) ⇒ 公共交通機関利用の場合には探訪に便利である。

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「戦国大名」(2014/平凡社)
「戦国関東の覇権戦争」(2011/洋泉社)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「上杉憲政」(2016/戎光祥出版)
「長野業政と箕輪城」(2016/戎光祥出版)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(黒田基樹著/2015/戎光祥出版)より「白井長尾氏の研究」
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)
「史籍解題事典」(1986/東京堂出版)
「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)
「上野志」(上野志料集成1/1917歓呼堂本店※旧世良田小学校蔵書第63号)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能)


更新記録
・2018年12月12日 HPアップ
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