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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/03/22のブログ 尾ノ窪城 
所在地
 群馬県藤岡市下三波川(旧鬼石町)
歴史、人物、伝承

廃城、廃校の試練に耐えた遺構
 寒桜の名所として名高い桜山(標高591m)の北側稜線から南東方向に派生した尾根筋が枇杷尾根と呼ばれており、その先端部に城跡が所在していることからこのように呼称されたもののようです。城跡は旧鬼石町立東三波川小学校(昭和50年3月を以て鬼石小学校へ統合され廃校)の敷地となっていることから、「群馬県の中世城館調査」などでは遺構についてはほとんど消滅したと記されています。
 しかし、実際には南東方向にのびる尾根筋の先端部には小規模ながらも、一部土塁を含む2か所の郭乃至腰郭とその間に所在する1ヶ所の堀切遺構と推定される地形などが明確に現存しています。これらの僅かに残された地形は、山崎一氏作成の縄張図とも一致することから中世城館遺構の一部と推定して差し支えないものと考えられます。なお名称の「びやんね」は「びわおね」の転訛と思われます。

確認可能な遺構
 郭(腰郭)、堀切、土塁、切岸、石積み?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年3月22日、3月29日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/03/22 )
 遺構は労力と時間を惜しまずに探すもの
 本日は天候に恵まれ夕刻になっても西方は晴天のまま。このため体力的には限りなくゼロに近い状態であるにも拘らず、道路沿いの民家の満開の梅の花を愛でさせていただきながら城跡の既に廃校となった三波川東小学校跡へ。確かに校庭北側の段々畑は城郭関係遺構のようにも見えなくも無いような。しかし常識的に考えれば後世の耕地整備に伴う地形改変の要素の方が遥かに大きいように思われます。
 然しその一方で学校跡南東方向の尾根筋上には、薄暗い木立の中にひっそりと隠れるようにして2段の腰郭が現存。上段部分は学校敷地の造成時に一部改変されている様子が感じられるものの、下段の腰郭は切岸をともなう20m四方の明確な削平地として顕在。加えてその西側部分には高さ1m、長さ5mほどの堀上げ土塁状の地形さえも。そして極めつけはさらにその西側に堀切状地形さえも存在。始めは尾根筋の位置が判然とせず、2度ほど諦めかけたのでありますが、夕刻のどさくさに平坦に成形された尾根筋を見つけたことがきっかけとなり、闇雲に薄暗い斜面を這い上がったに相応しい成果なのでありました。

「堀切状地形」 画像クリックで拡大します
堀切状地形
( 2008/03/22 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
城跡西側の久々沢
凸1 枇杷尾根城遠望
 尾ノ窪城を遠望できる地点からは、枇杷尾根城、塩沢の砦に加えて、さらには諸松城、真下城の眺望が可能という絶好の眺望ポイント。枇杷尾根城の所在地は標高200m前後であるため、東西の稜線に囲まれてしまいけっして眺望が優れているとはいえません。この点からもこの資源センターの所在する眺望にすぐれた広大な緩斜面丘陵地帯の存在が気にかかります。
凸2 城跡西側の久々沢
 枇杷尾根城西側の沢筋に相当し、水濠の代用となる天然の要害を形成しています。現在は桜山へと通じる林道が画像手前部分を通過しています。
 なお、画像中央の道路は旧東三波川小学校へ向かう通学路で東側の大沢方面へと通じています。

旧校庭北側の段々畑状地形
「下段の郭」 画像クリックで拡大します
凸3 旧校舎裏の段々畑
 この石垣で形成された段々畑について、そのまま城郭関連遺構の段築と考えるにはかなりの無理があるように思われます。南側の緩斜面という利点から、かつては養蚕のための桑畑、その後は現在のような野菜畑の農地として活用されていたものと想定されます。尾根筋の奥の方の標高378mの地点付近の地形が気にかかるところですが、この場所を訪れるのは、2度とも殆ど体力を使い果たした日没間際であったためいまだに未確認のまま。
 また、ポツンと設置されたコンテナハウスの中には2匹の人懐こい中型犬と共にお住まいの方もいらっしゃる気配なのでありました。
 ⇒校舎裏側の段築地形
 ⇒廃校となった東三波川小学校の校門
 ⇒腰郭跡の貞和年間(南北朝期)の板碑標柱
凸4 下段の郭
 腰郭と呼ぶには些か規模の大きい人工的な削平地で、約20m四方ほどの規模を有し下方の県道との比高差はおよそ30mほどと推定されます。
 学校への電力供給のために郭の南端の方に電柱が1本だけ設置されていることが幾分気にかかりましたが、常識的に考えればその工事目的のためだけに削平されたということはないものと推察されます。
 ⇒下段郭南側斜面の石積み? 
 ⇒下段郭南端の切岸状地形 
 ⇒上段の腰郭との間に所在する門渡り
   (現在は北側斜面の崩壊が進行中)
 ⇒上段の腰郭から見下ろした切岸の施された尾根筋
 ⇒上段の腰郭先端

「下段の郭西側の堀上げ土塁」 画像クリックで拡大します
尾根筋の遺構への登り口
凸5 掘上げ土塁
 下段の郭西端に所在し内側の高さは約1m、長さ5mほどの規模で残され、このすぐ向こう側に東側の深さが2mとなる堀切状地形を確認することができます。
 山崎氏作成の縄張り図から、郭状の削平地が存在することはある程度は予想しておりましたが、堀切普請に伴う掘上げ土塁とはいえども立派な城郭関連遺構の構成要素との対面が叶い、望外の達成感に浸る管理人なのでありました。
凸6 尾根筋遺構への登り口
 県道側から登るにはこの道を入り途中で道を外れて正面の尾根筋目指して這い上がるとそこが下段の郭となります。
 また、旧小学校の校門東側のところから尾根筋を下るルートも所在しますが、いずれにしても散歩程度の労力で山城遺構に出会えるという手軽さが誠に嬉しいのでありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「鬼石町誌」(1984/鬼石町)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2008/04/06 HPアップ
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