群馬県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 群馬県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 亀泉城崖線部の遠景 亀泉城のロゴ 亀泉城の崖線部
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年3月14日のブログ 上泉城 大室城
所在地
 群馬県前橋市亀泉町本郷
歴史、人物、伝承

柳沢氏の居城とも
 町名である「亀泉」の地名については、あくまでも明治初期に「勢多郡の小泉村と中亀村」が合併したことによるものであることから、この城館跡は本来は「旧小泉村」に属しているということになる。
 「角川日本地名大辞典」によれば、永正元年(1504)と推定されている「穴沢次郎右衛門宛上杉顕定感状」に「上州大胡・小泉要害相攻之時」(歴代古案)と記されていることから、この亀泉城が「小泉要害」であったという旨を記し、大胡城と並ぶ要害の地であったとも述べている。
 従ってこのことは山内・扇谷上杉氏の内訌である長享の乱収束の直後における、その当時の関東管領上杉顕定による上野領内における平定活動等の一環というようにも思えなくもない。 けれども、この時期における上野国内における政治情勢と顕定自身の具体的な動向を把握しきれていないことからそれ以上言及することは難しいものがある。
 またこれに加えて「小泉」の地名については、著名な「小泉城」の所在する大泉町のほかに伊勢崎市、佐波郡旧東村など、少なくとも上野国内に合わせて4か所ほどは存在してることもあることから、上記「角川日本地名大辞典」の記述をそのまま鵜呑みにするのは些か性急であるようにも思われる。
 なおその歴史的背景については「日本城郭大系」の巻末一覧表によると柳沢氏の居城として記されている。さらに山崎一氏の「続・群馬の古城」にも同様の記述があり、柳沢雅楽頭(やなぎさわ/うたのかみ)が城将をつとめ、大胡城の出城である旨を推定されている。

確認可能な遺構
 消滅、城跡東側崖線部のみに城跡らしい地形の名残りが認められるが標柱などは無い
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年3月14日 7時20分から8時40分
訪城の記録 記念撮影

 初っ端から曲がり損ねる失態
 午前5時に自宅を出ましたが、本来は1度のトイレ休憩を含めても午前7時過ぎには到着するはずのところ、途中で上武亀泉交差点で左折すべきところをうつかり曲がり損ねました。
国道17号線バイパスでもある上武道路は信号も少なく群馬方面への近道として利便性が高いのですが、一度曲がる場所をやり過ごすと元の道に戻るのに手間取ることがあります。
このためその先の上毛電鉄の陸橋を超えた先のジャンクションから大きくぐるっと迂回することとなり、現地到着時刻は午前7時15分過ぎとなってしまいました。
こうした事情があったことから現在位置と方位の確認などに少々手間取りさらに5分ほどを要してしまいました。つまり本来は東側からアプローチするところを反対方向の西側からアプローチすることとなり、前日のイメージトレーニングが全く生かされていないらしく、日の出直後ということも重なり即座には体と脳が正常に動作しないのでありました。
やはり2か月以上という踏査活動のブランクは、加齢という問題も加わりいろいろな感覚も鈍化してくるようでした。
 さて 天台宗如意寺の駐車場をお借りして、どうにか現在地と方角の把握に努めていると、ようやく亀泉公民館付近が主郭跡であるらしいことに気がつきました。
赤城山麓の丘陵地帯に所在する城館跡でありますので、東西には天然の濠となる小流が存在し北から南へと流れ下っているという地形で、この付近に所在する城館跡の特徴でもあるようにも思われます。
なお城跡の東側の河川は寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在しています。
むろん明確な遺構は乏しいのですが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されていることからも、確かに城館跡の存在感が漂っているようにも感じました。
1970年代前半頃までには、この小丘陵上にある程度の遺構も散在していたらしいのですが、その後は次第に宅地化と耕作地化が進行してほぼ消滅した模様です。(山崎一氏によれば1972年3月の耕地整理と道路開鑿であるという)
従いまして現在ではかつての城跡としての名残は、僅かに城跡東側に残る崖線部の地形のみといっても良いように感じました。
 折角ですのでいちおう城跡の所在していた周辺の地形全体を確認すべく、城跡北西の前橋市指定重要文化財で南北朝期の作と推定されている「石造薬師三尊像」を参拝し、次に城跡の北方に所在する赤城神社を参拝、さらに城跡の一部に含まれると思われる南西の如意寺を参拝しました。 さらにこのあと城跡の最南端と思われる丘陵先端部の地形などを確認し概ね踏査を終了しました。
( 2019/3/22 )記述
亀泉城東側崖線部の遠景
亀泉城東側崖線部の遠景 −画像A−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸この画像の川が城跡東側を南北方向に流れている寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在している地域です。
亀泉城の地表部分の遺構自体はほぼ消滅している様子ですが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されており、確かに城館跡としての存在感が漂っているように感じました。

亀泉城東側崖線部
亀泉城東側崖線部 −画像B−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸東側の市道沿いから上記の画像Aの崖線部分を北方向から撮影したもので、城跡の北限については民家の所在する辺りよりさらに南側となるものと考えられます。

国土地理院航空写真画像
国土地理院航空写真画像 −画像B−
( 2019年3月21日 編集加工 )
凸おおむね画像中央の楕円形の範囲が亀泉城の領域となるものと考えられ、北方の赤城神社方面から延びる低丘陵が形成している半島状地形の先端部分に所在しています。
 「群馬県の中世城館跡」などによりますと、おそらくは1970年代の中頃くらいまでは堀や土塁などが一部遺されていた旨が記されていますが、この画像を見た限りでは明確な城館遺構については既にこの戦後間もない時期に分かりにくくなっていたことが窺えるように思われます
 なお、現在ではこの城跡の個所を南北方向に2本、東西方向に1本の市道が存在していますが、70年以上前は現在の県道76号線となる道路が存在していたのみで、ほかには集落内の道幅の狭い農道や通路が所在していたということが分かります。

訪城アルバム
凸1 主郭付近か
 「群馬県の中世城館跡」などの略測図からは、この菜の花畑の辺りから下記「画像2」の亀泉公民館附近かけて本丸(主郭)が所在していたものと考えられます。

凸2 亀泉町公民館
 中世城館跡はこうした地域の中心となる公共施設が所在している場合が少なくないように感じます。もし仮に城館跡の標柱などが設置されているとすれば、この場所以外には考えられません。しかし入口は画像のようにチェーンで施錠されておりましたので、敢えて敷地内へは立ち入るようなことは自重し、周囲から確認した限りではそうした存在は見当たりませんでした。

凸3 如意寺
 「群馬県の中世城館跡」の略測図からは、郭の一部と考えられるこの寺の境内東側に堀跡のような区画が記されているように見えました。
なお画像右端の道は近年に整備された新道であり、この城跡を南北に隔てていますが、恐らくこのライン上に台地地形を分断するような堀切地形が穿たれていたようにも思われます。

凸4 如意寺境内
 天台宗如意寺の境内も本来は比高差3メートル以上の台地であり、現在は市道により隔てられていますが、以前には北側の本丸とされる亀泉公民館の敷地に隣接していたものと考えられます。なお、山崎一氏の説によりますと、かつての古墳跡の可能性を指摘されています。

凸5 丘陵北部
 画像手前の耕作地は城域外となるようですが、このように北側の丘陵伝いは無防備に近い地形であるように思われます。このためかつてはこの辺りにも丘陵を横断するような堀切地形が所在していても不思議はないのですが、70年前の航空写真にもそうした形跡を感じる要素は確認できませんでした。

凸6 丘陵西側
 寺沢川沿いに崖線地形を残している東側とは異なり、この丘陵西側の地形は崖線部は所在しているもののその比高差は少ないことから地形としての防御性は劣るように感じました。

凸7 薬師堂
 城跡の所在していた周辺の地形全体を確認すべく、城跡北西約150mの地点に所在している「石造薬師三尊像」を参拝いたしました。なお堂宇の周囲に低土塁状の地形が廻っておりましたが、あくまでもこの薬師堂の建立に関係する信仰上のものであるように思われます。

凸8 石造薬師三尊立像
 下記の解説板によりますと、この地域には多い安山岩を用いたもので、前橋市指定重要文化財に指定され南北朝期の作と推定されているとのことです。

凸9 解説板
 地元では今でも「病気の平癒」を祈願する民間信仰として続いている旨などが記されておりました。なお近くの亀泉城についての言及はありませんでした。

凸10 丘陵西側
 全体として丘陵の西側については、寺沢川のような河川が存在していないことにより、東側の崖線地形とは異なり比高差も余り大きくは無く、むしろこのような広々とした緩斜面が形成されていました。

凸11 赤城神社
 城跡北方に所在している赤城神社で、概ねこの辺りが本郷という字名の中心部に相当する地域なのかも知れません。

凸12 丘陵南端部
 画像の左側に見える舗装道路が県道76号線で、上記の画像Cの70年前に撮影された航空写真の当時から、このような形で如意寺との間か隔てられていました。もともとは同じ丘陵地形として繋がっていたものが当該道路の建設により切通し状に分断されたものと考えられます。
 現状の比高差は2mから3mほどを測り、「マッピングぐんま」では文化財包蔵地の範囲内であることを示しているように思われますが、一方「群馬県の中世城館跡」の略測図では当該城域外であるような表現となっていました。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社) ⇒ 巻末一覧に掲載あり
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり
「続・群馬の古城」(2008/山崎一/あかぎ出版)比較的詳しい解説が掲載されている

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)掲載なし

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)掲載なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つが、前橋市内の遺跡に関しては「遺跡番号」により整理されているためやや分かりにくくなっている。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあるが、残念ながら当該城館跡に関しては明確な遺構の存在は把握できない。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能)


更新記録
・2019年3月22日 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動