凸 初っ端から曲がり損ねる失態
午前5時に自宅を出ましたが、本来は1度のトイレ休憩を含めても午前7時過ぎには到着するはずのところ、途中で上武亀泉交差点で左折すべきところをうつかり曲がり損ねました。
国道17号線バイパスでもある上武道路は信号も少なく群馬方面への近道として利便性が高いのですが、一度曲がる場所をやり過ごすと元の道に戻るのに手間取ることがあります。
このためその先の上毛電鉄の陸橋を超えた先のジャンクションから大きくぐるっと迂回することとなり、現地到着時刻は午前7時15分過ぎとなってしまいました。
こうした事情があったことから現在位置と方位の確認などに少々手間取りさらに5分ほどを要してしまいました。つまり本来は東側からアプローチするところを反対方向の西側からアプローチすることとなり、前日のイメージトレーニングが全く生かされていないらしく、日の出直後ということも重なり即座には体と脳が正常に動作しないのでありました。
やはり2か月以上という踏査活動のブランクは、加齢という問題も加わりいろいろな感覚も鈍化してくるようでした。
さて 天台宗如意寺の駐車場をお借りして、どうにか現在地と方角の把握に努めていると、ようやく亀泉公民館付近が主郭跡であるらしいことに気がつきました。
赤城山麓の丘陵地帯に所在する城館跡でありますので、東西には天然の濠となる小流が存在し北から南へと流れ下っているという地形で、この付近に所在する城館跡の特徴でもあるようにも思われます。
なお城跡の東側の河川は寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在しています。
むろん明確な遺構は乏しいのですが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されていることからも、確かに城館跡の存在感が漂っているようにも感じました。
1970年代前半頃までには、この小丘陵上にある程度の遺構も散在していたらしいのですが、その後は次第に宅地化と耕作地化が進行してほぼ消滅した模様です。(山崎一氏によれば1972年3月の耕地整理と道路開鑿であるという)
従いまして現在ではかつての城跡としての名残は、僅かに城跡東側に残る崖線部の地形のみといっても良いように感じました。
折角ですのでいちおう城跡の所在していた周辺の地形全体を確認すべく、城跡北西の前橋市指定重要文化財で南北朝期の作と推定されている「石造薬師三尊像」を参拝し、次に城跡の北方に所在する赤城神社を参拝、さらに城跡の一部に含まれると思われる南西の如意寺を参拝しました。 さらにこのあと城跡の最南端と思われる丘陵先端部の地形などを確認し概ね踏査を終了しました。
( 2019/3/22 )記述
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亀泉城東側崖線部の遠景 −画像A−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸この画像の川が城跡東側を南北方向に流れている寺沢川で、その上流域には荻窪城、横沢城などの大胡氏に関係すると思われる中世城館群なども多く存在している地域です。
亀泉城の地表部分の遺構自体はほぼ消滅している様子ですが、それでも城跡の所在する台地の南東方向に比高差5メートルから8メートルほどを測る崖線部が遺されており、確かに城館跡としての存在感が漂っているように感じました。
亀泉城東側崖線部 −画像B−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸東側の市道沿いから上記の画像Aの崖線部分を北方向から撮影したもので、城跡の北限については民家の所在する辺りよりさらに南側となるものと考えられます。
国土地理院航空写真画像 −画像B−
( 2019年3月21日 編集加工 )
凸おおむね画像中央の楕円形の範囲が亀泉城の領域となるものと考えられ、北方の赤城神社方面から延びる低丘陵が形成している半島状地形の先端部分に所在しています。
「群馬県の中世城館跡」などによりますと、おそらくは1970年代の中頃くらいまでは堀や土塁などが一部遺されていた旨が記されていますが、この画像を見た限りでは明確な城館遺構については既にこの戦後間もない時期に分かりにくくなっていたことが窺えるように思われます
なお、現在ではこの城跡の個所を南北方向に2本、東西方向に1本の市道が存在していますが、70年以上前は現在の県道76号線となる道路が存在していたのみで、ほかには集落内の道幅の狭い農道や通路が所在していたということが分かります。
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