群馬県内の城館跡目次
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 
所在地
 群馬県前橋市上泉町宿、前浪花1124ほか(※「マッピングぐんま」より引用)
歴史、人物、伝承

天然の要害の地ではあるが
 上泉城は南を桃ノ木川に、東と北を藤沢川に囲まれた赤城山南麓の要害の地に所在している。しかし城域の北側についてはいちおう藤沢川を天然の水堀していると考えられるものの、その城域については早い時期から集落や耕作地が広がったことなどもあり不明確な部分が多いように思われる。城跡としての規模は東西約500メートル、南北約300メートルの範囲に納まり、その縄張りは不整形地に近いという印象があるが、北方と西方についてはいささか自然地形としての有利性を欠いているものと考えられる。

大胡氏一族上泉氏の城とも
 「前橋市史第1巻」や「日本城郭大系第4巻」などの記述によれば、大胡氏一族の上泉氏の居城とも考えられており、のちにその一族の剣聖上泉伊勢守(諱は秀綱、のち信綱、のち武蔵守とも)が柳生新陰流流祖とされていることから比較的知られた城跡となっているようだ。
 なお、「関東幕注文」にはその一族である上泉大炊介が、長尾景虎の越山を嚮導したともいわれているが、同文書には本来は大胡氏と同様に厩橋衆(厩橋長野氏)に含まれるはずの上泉氏が白井衆(白井長尾氏)の一員として記されている。(※「日本城郭大系第4巻」より)その後は武田氏の上州侵攻によりその支配下に置かれたとされている。

確認可能な遺構
 現在は土塁、本丸(主郭)の一部などにとどまる
文化財指定
 なし/城跡の現地解説板、上泉伊勢守秀綱に関する石碑あり
訪城年月日
 2018年1月16日 10時45分から12時00分
訪城の記録 記念撮影

 剣聖への道は険しく遠い・・・らしい
 それなりの遺構が残存していた伊勢崎市内の西今井館跡から、次は後に剣聖として崇められることとなった著名な上泉伊勢守に関わる上泉城へと向かうこととしました。車での移動ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのですが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと左車線をそのまま前橋市内へと向かってしまいました (^^ゞ  このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折して、Uターンにより再び上武道路に戻ろうと考えました。しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付きました。2017年によく訪れていた太田市内辺りはある程度地理情報が頭に入っているのですが、今回訪れている伊勢崎市から前橋市にかけての地理情報は全くの空白地帯なのでありました。
 高規格で建設された国道のバイパスは時速60km(※実際には時により時速80km前後で走行している車両が多く見受けられます)での走行が可能なのですが、JCの分岐での判断を誤るとこのように些か面倒なことにもなるのでありました。加えてその次には到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまうという失態をしでかしました (^^ゞ  とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(※郷蔵と上泉自治会館が所在している)は既にナビに表示されていたので、結果的にはそれほどの問題もなく無事に現地に到着することができました。
 云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡です。軽乗用車であるとはいえ、まず取り敢えずは駐車場所の確保が大切ですので、予めストリートビューで情報入手しておいたとおり、上泉自治会館の駐車場をお借りし暫しの間こちらを利用させていただきました。山崎一氏によりますと、自治会館北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭(本丸)であるとされています。またその北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が以前の堀跡であることは明白であるように感じました。一般に公開されている縄張図などにも記されている主郭北西部の張出し部も健在でした。
 ほかに剣聖上泉伊勢守の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいきましたが、その一方で主郭付近には城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみでありました。さて、ここからは徒歩で反時計回りに城跡の東通、北通を進み一度城域の北限と思われる県道76号線に出てから再び南下、玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認しました。城跡としての広さの割にはやや関連する遺構は乏しく、目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうな感じでした。無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いと思います。最後に伊勢守信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻りました。
( 2019/2/2 )記述
上泉城の現地解説板
上泉城の現地解説板 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸本丸内にせっちされているもので、南側に面して設置されていることもあり、日焼け、気温差、風雨などの影響により、大分ひび割れと変色がすすんでいるように見受けられ、大きな白っぽいひび割れの部分を危うく道路と勘違いしそうになりました (^^ゞ
 城跡のための解説板はあくまでもこの一点だけであるらしく、各所に設置されている石碑類はその殆んどが上泉伊勢守に関連するものとなっています。

西側から眺めた上泉城
西側から眺めた上泉城 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸城跡の西端に所在している玉泉寺の台地を撮影していますが、設置されている看板が示しているようにやはり戦国期の城郭である「上泉城」よりも「剣聖上泉伊勢守」の方が著名であるようです。
 水田との比高差は10メートル前後に過ぎませが、おおむねこの方面に関しては急傾斜の崖線が形成されているようです。

上泉城の国土地理院航空写真
上泉城の国土地理院航空写真 −画像C−
( 2019年2月1日 編集加工 )
凸山崎一氏によりますと、概ね赤枠の範囲が城跡である模様ですが、この戦後間もない時期に撮影された航空写真画像でもも、城跡内は既に宅地化などが進んでように思われ、ごく一部を除いて堀跡や土塁の存在が分かりにくくなっているようです。

訪城アルバム
凸1 郷蔵の解説
 江戸時代の寛政年間に前橋藩により建設された郷蔵に関する解説です。
 上泉城自体はあくまでも上泉伊勢守との関わりが著名であるらしく、次にこの郷蔵が群馬県指定史跡としてその名が知られていますが戦国期の城跡としての認知度はあまり高くは無いのかも知れません。

凸2 柳生新陰流流祖としての石碑も
 諸国行脚ののちに大和柳生家に指南したとされていることから、柳生新陰流の流祖として顕彰されていました。

凸3 上泉伊勢守の銅像
 自治会館駐車場脇に設置されている上泉信綱の銅像で、画像左手に見える屋根のついた箱に上泉伊勢守に関連する手づくりのパンフレット類が設置されておりました。
 地元自治会の皆様に感謝 <(_ _)>

凸4 郷蔵
 群馬県指定史跡文化財で、城跡の南側を東流している桃ノ木川の氾濫や洪水の影響を考慮したものと考えられ、江戸時代の寛政期から既にこの本丸の北側辺りに所在していたのかも知れません。

凸5 本丸跡
 上泉城の本丸跡とされている高台の個所で、近世の寛政年間に建てられた郷蔵などの影響もあるのかも知れませんが、城跡としての地形は相当程度の改変が加わっているように感じられました。画像左側の通路についても近年における郷蔵の修復整備などに伴い敷設されたもののように思われます。

凸6 本丸北側の張出し部分
 画像右端の植栽によりやや分かりにくなっているのですが、画像中央部の削平地が画像の右側方向に幾分楕円状に張出しています。

凸7 本丸から
 本丸から北側の堀跡である道路を俯瞰していますが、道路部分とのその比高差は4メートル前後でしょうか。

凸8 本丸北側
 山崎一氏の作成された「上泉城要図」によりますと、この辺りに東西方向に空堀が所在していた模様ですが、このように耕作地と化しているため判然としませんでした。強いて言えば、画像の左側の個所がいくぶん低くなっているようにも見受けられますがその事実関係は不明です。

凸9 北通り
 城跡を東西方向に通る集落内の公道で、この城跡の防御上の弱点はこの北側部分の台地続き方面であることは明白なのですが、大分以前から集落が広がりを見せさらに県道76号線が東西方向に貫通していることから城域が不明瞭となっておりました。

凸10 土塁跡か?
 城跡北部の公道沿いに見られる土塁跡のようにも見える民家敷地内の盛土で、山崎一氏の記された「日本城郭大系」の上泉城要図にも小さく記されているものがあり概ねその位置は一致しているように思われます。

凸11 赤城神社
 現在は拝殿、本殿などの社殿は無いらしく、画像の奥に石祠が祀られておりました。概ね城跡の北西方向に当たるようにも思われますが、城域の北側部分はその詳細が不明であり、こうした小規模な神社は明治末期の合祀などの影響も考えられ、鬼門除けの意味があるのかどうかはについては不明です。

凸12 屋敷神の祭壇か?
 たまたまですが、下記の「画像13」近くの民家北側屋敷林あるいは宅地跡?のような個所が綺麗に伐採されておりました。盛土のような個所は赤城神社や稲荷神社などの屋敷神の祠を祀る祭壇のようなものなのかも知れません。

凸13 堀跡?
 玉泉寺南東付近の地形で、かつての堀跡が現在は集落内を通る公道に変貌したようにも思われ、どちらかといえばむしろ地侍層の屋敷が集合した寄居のような性格がその後変化していったようにも感じました。

凸14 玉泉寺北東の土塁
 長さ約15メートル、高さ約2.5メートルの鍵の手状の土塁ですが、既に北側に存在していたと思われる堀跡部分は境内地や隣接する公道の整備などにより消失している模様でした。
 なお、北側の公道部分からは塀などに隠れて気がつきにくいように思われたのですが、画像奥の墓地への近道からもアプローチすることが可能でした。

凸15 女堀の西端付近
 山崎一氏の作成された略測図によりますと、中世初期の灌漑用水と考えられている「女堀」の西端付近(※「日本城郭大系第4巻」では上泉城の堀跡に重なるとも)とされているのですが、もしも桃ノ木川、或いは藤沢川あたりから引水するとすれば、物理的にこの坂の下辺りから引水しないといけないように思われます。

凸16 桃ノ木川
 上泉城の南側を東流する河川で、その川幅と水量の豊富さから天然の水堀の役割を担っていたものと考えられます。
 現在は水害等を防ぐために河川改修が行われておりますが、画像Cの航空写真画像が示しているように、終戦後間もない時期には現在よりも大きく蛇行していたことが窺えます。なお奥に見える山は榛名山方面です。

凸17 顕彰碑とその事跡を記した石碑
 内閣総理大臣故福田赳夫氏の揮毫による顕彰碑のようです。

画像クリックで拡大します
凸18 上泉信綱の事跡を記した石碑
 西林寺境内の南側向けて建立されている石碑ですが、やはりこの画像の文字が小さく読みにくいので画像クリックしますと拡大するようにしました。
 郷土の誇るべき英雄の顕彰碑というような性格もあるようで、やや情緒的な文言も垣間見れますが、ど素人である管理人の能力では対応できませんでした。上泉伊勢守の事跡については、唯一ともいわれている同時代史料の「山科言継日記」に登場する在京時代の動静以外には信頼すべき史料が少ないようですので、このため果たしてどの辺りまでが史実であるのかについては今後の検討課題とさせていただきます (^^ゞ

凸19 上泉自治会館
 山崎一氏の略測図によりますと、概ね本丸(主郭)の南半分が所在していた辺りに相当するものと考えられます。いくぶん駐車場の路面が左側(南側)に傾斜しているように見えますが、これは元々の台地地形の傾斜によるものと思われます。
 城跡の一帯は概ね宅地化と耕地化が進んでいますので、車で訪れた場合にはなるべくこちらの端の方に駐車させていただくのが無難であるように思われます。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)

歴史・郷土史関係
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「全国国衆ガイド」(2015/星海社)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「上杉憲政」(2016/戎光祥出版)
「長野業政と箕輪城」(2016/戎光祥出版)
「箕輪城と長野氏」(2011/戎光祥出版)1985年上毛新聞社より出版されたものを改訂
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
 ⇒ 975頁から982頁に「山科言継日記」を始めとする上泉伊勢守信綱、1030頁から1032頁に上泉城に関する記述などが掲載されている。

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあるが、残念ながらこの城跡に関しては当該画像からの得る情報は少ない。

更新記録
・2019年2月2日 HPアップ
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