凸 剣聖への道は険しく遠い・・・らしい
それなりの遺構が残存していた伊勢崎市内の西今井館跡から、次は後に剣聖として崇められることとなった著名な上泉伊勢守に関わる上泉城へと向かうこととしました。車での移動ルートとしては概ねそのまま上武道路に入り北西へと向かえばよいことになるのですが、途中国道50号線と立体交差する今井町のJCをついうっかりと左車線をそのまま前橋市内へと向かってしまいました (^^ゞ
このため止むを得ず今井町西の丁字路を左折して、Uターンにより再び上武道路に戻ろうと考えました。しかしよくよく考えてみると、そのまま小田島町の交差点まで進み途中農道を経由して県道76号線の江木町交差点を左折すれば上泉町方面へと向かえることに気付きました。2017年によく訪れていた太田市内辺りはある程度地理情報が頭に入っているのですが、今回訪れている伊勢崎市から前橋市にかけての地理情報は全くの空白地帯なのでありました。
高規格で建設された国道のバイパスは時速60km(※実際には時により時速80km前後で走行している車両が多く見受けられます)での走行が可能なのですが、JCの分岐での判断を誤るとこのように些か面倒なことにもなるのでありました。加えてその次には到着の直前に城の外堀代わりでもある藤沢川を渡って2本目の道を左折すべきところ、1本目の川沿いの側道を曲がってしまうという失態をしでかしました (^^ゞ
とはいうものの、結果的には目指すべき城跡(※郷蔵と上泉自治会館が所在している)は既にナビに表示されていたので、結果的にはそれほどの問題もなく無事に現地に到着することができました。
云わずとも知れた剣聖上泉伊勢守信綱が生まれたとされている城館跡です。軽乗用車であるとはいえ、まず取り敢えずは駐車場所の確保が大切ですので、予めストリートビューで情報入手しておいたとおり、上泉自治会館の駐車場をお借りし暫しの間こちらを利用させていただきました。山崎一氏によりますと、自治会館北側に隣接した現在は文化財指定を受けている近世の郷蔵が所在する高台が上泉城の主郭(本丸)であるとされています。またその北側の民家との間の道や自治会館敷地の一部でもある西側の舗装された空閑地が以前の堀跡であることは明白であるように感じました。一般に公開されている縄張図などにも記されている主郭北西部の張出し部も健在でした。
ほかに剣聖上泉伊勢守の銅像、記念碑など建立され賑々しく出迎えていただいきましたが、その一方で主郭付近には城跡に関するものはやや年季の入った感のある説明版のみでありました。さて、ここからは徒歩で反時計回りに城跡の東通、北通を進み一度城域の北限と思われる県道76号線に出てから再び南下、玉泉寺入口手前からまた北上し境内北側の土塁状地形を確認しました。城跡としての広さの割にはやや関連する遺構は乏しく、目ぼしい城跡遺構は以上の主郭周辺部とこの土塁状地形の2か所といっても良さそうな感じでした。無論桃ノ木川沿いの台地崖線地形も眺めておくと良いと思います。最後に伊勢守信綱の菩提寺である西林寺にも立寄り自治会館の駐車場へと戻りました。
( 2019/2/2 )記述
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上泉城の現地解説板 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸本丸内にせっちされているもので、南側に面して設置されていることもあり、日焼け、気温差、風雨などの影響により、大分ひび割れと変色がすすんでいるように見受けられ、大きな白っぽいひび割れの部分を危うく道路と勘違いしそうになりました (^^ゞ
城跡のための解説板はあくまでもこの一点だけであるらしく、各所に設置されている石碑類はその殆んどが上泉伊勢守に関連するものとなっています。
西側から眺めた上泉城 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸城跡の西端に所在している玉泉寺の台地を撮影していますが、設置されている看板が示しているようにやはり戦国期の城郭である「上泉城」よりも「剣聖上泉伊勢守」の方が著名であるようです。
水田との比高差は10メートル前後に過ぎませが、おおむねこの方面に関しては急傾斜の崖線が形成されているようです。
上泉城の国土地理院航空写真 −画像C−
( 2019年2月1日 編集加工 )
凸山崎一氏によりますと、概ね赤枠の範囲が城跡である模様ですが、この戦後間もない時期に撮影された航空写真画像でもも、城跡内は既に宅地化などが進んでように思われ、ごく一部を除いて堀跡や土塁の存在が分かりにくくなっているようです。
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