群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
群馬県藤岡市の城館索引へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/24のブログ  2008/02/01のブログ 浄法寺城 平井城 東平井の砦
所在地
 群馬県藤岡市保美字中内出(ほみ/あざ/なかうちで)
歴史、人物、伝承

芦田氏(依田氏)関連の居館の可能性も
 神流川左岸の河岸段丘上に所在する東西120メートル、南北60メートルほどの比較的小規模な居館で、山崎一氏の見解によりますと、すぐ200mほど北側に所在する芦田川屋敷については信州佐久出身である芦田氏(依田氏)の館跡との推定をされています。この説をそのまま援用させていただくと、芦田氏およびその一族の居館跡といえなくもありません。
 また、「浄法寺地域城郭群」として捉える同氏の見解によりますと、その構成要素である金鑚御嶽城、根古屋の三ツ山城、浄法寺城とは指呼の間であることから、同時代における同一勢力による支配関係の存在を窺われます。ただし、この居館跡についてより具体的に、芦田氏(依田氏)、長井氏あるいは高山氏などのいずれの直接支配下にあったのかを特定することは、その周辺の支配関係が流動的であったために極めて難しい命題であると考えられます。
 「鬼石町誌」によれば、別名を「保美の内出」とも。

確認可能な遺構
 民家周辺の地形に往時の面影が残ります
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年12月24日、2008年2月1日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/24 )
 神流川左岸の段丘沿い
 自宅の飼猫のポミと酷似した名称であることから、このため何が何でも訪れねばという経緯がありました =^_^= 立地条件としては神流川左岸の比高差15m弱程度の崖地先端付近に占地し、直感的には崖沿いの付近が怪しそうな気配を感じました。然しこの時の足元はといえば運転の便宜等を優先したためスポーツサンダルという実にお粗末ないでたちでありました。このために離れた個所から眺めたのみにて、足場の悪い個所には踏み込めずじまいとなりました。したがって画像は「およそこのあたり」という極めて曖昧な性格のものとなってしまいました。この先幾度も群馬に訪れることは必定で、合わせて事前の下調べを含め資料不足も甚だしいものがありました。いずれにしても些か資料不足のため後日の再調査の対象とすることにして、次の目的地へと急いだのでありました。

( 2008/02/01 )
 南北を深い谷に囲まれた崖端
 昨年末訪れたときには明らかに本来の所在地とは異なる南側の見通しのよい河岸段丘上の畑付近をうろうろしてしまった経緯がありました。その時北側の竹林を怪しいとは睨みつつも、事前調査・資料不足が災いして御嶽城の写真を撮影して誤魔化していたというのが偽らざる真相にございます。
 かくて今回は、複数の航空写真画像と地形図、周辺の建物等の配置などをしっかりと頭に叩き込み、綿密なイメージトレーニングのおまけ付で再訪いたしました。その結果は、無論、所在地は完璧にヒットし、南側の砂防ダムの所在する荒戸沢の谷を下り、もののついでに崩落の危険が含まれそうな神流川の河川敷のあたりまで踏査してしまったのであります。
 ただし今回は前回の反省から藪潜り専用のゴーグル&ヘルメット付で、傍目にはどう見ても砂防ダムの点検に訪れた関係者のようないでたちにございます。本来の仕事との関係で工事現場などに馴染みやすい雰囲気があるらしく、不審者と思われることも少なく、こういうときなどには都合のよい場合もありました。思いのほか南側の荒戸沢の規模は下流の東側に進むほど大きくなり、砦の推定所在地周辺では幅20m、深さ10m超という個所も所在。あわせて崩落も顕著で水量は少ないものの対岸の急斜面は降雨の後などには間違いなく崩落する危険性さえも内在している状況でありました。なお、屋敷西側に痕跡の残る堀跡(窪み)は確認するには至りませんでした。

画像クリックで拡大します
保美の砦(西側からの遠景)
( 2008/02/01 撮影 )
訪城アルバム
「◎」印は2007/12/24に撮影したものです
画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸1金鑚御嶽城
 「保美の砦」近く神流川左岸の河岸段丘からは、著名な武州の金鑚御嶽城が一望できます。その逆はと言うと主郭からは樹木や尾根筋に視界を遮られてほとんど見通すことは叶いません。しかし、東の郭の物見岩、あるいは西の郭先端部からは眺望できるはずです。
神流川河川敷から眺めた金鑚御嶽城
凸2神流川左岸の河岸段丘
 河岸段丘の先端から見下ろすと些か危険を感ずる高さではありますが、下の河川敷方向から見上げるとさほどのことはないというのが第一印象です。
 しかし、切り立った崖の部分は崩落が予見される状況のようでもあることから、迂闊に先端部に近寄ることは避けた方が賢明なのでありました。

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸3 県道沿いの入口
 砦跡遺構とは直接には無関係かも知れませんが、殊更に趣のある県道からの入口の地形で、取分け左側の部分は土塁跡に相応しい形態を残しているのでありました。
余り古いものではないと思われる川原石の石塁
曰くのありそうな切岸のような地形も
県道沿いの墓地に所在する明徳2年(1391)の板碑
凸4 始めは小さな坪井沢の谷
 正面に見える石積みの先が「保美の砦」の推定地に相当するはずです。僅か数十メートル先の下流では「5」のような規模の大きく深い谷を形成していますが、このコンクリートの橋の個所では幅2m、深さ1.5mという小さな流れに過ぎません。このような地質状の特性は他の個所でも散見されることから、神流川左岸の小河川についてある程度共通した傾向となっているようです。
坪井沢の標識

画像クリックで拡大します
画像クリックで拡大します
凸5 坪井沢下流の様子
 坪井沢の下流域は、いきなりこのような10mを超えるような深い谷が刻まれて天然の要害を形成しています。
 「鬼石町誌」(現藤岡市鬼石地区)の41頁によりますと、この地域が「三波川結晶片岩帯」の北辺境界部分に相当することから、「新生界・第3系」との断層による特殊な地質構造がもたらした独特の地形であるようにも思われますが、そこは素人の悲しさでこの憶測の真偽のほどは分かりかねます。
凸6 三ツ山城方面と神流川左岸の段丘
 画像「1、2」の個所を神流川左岸の河川敷から見上げて撮影したもので、山城としての三ツ山城方面の様子を窺うことができますので、その逆に山城の三ツ山城からは神流川の様子が把握できる可能性も考えられます。
 河岸段丘と河川敷の比高差は保美の砦から200mほど南側の地点に相当するこの付近では12mほど。「保美の砦」のあたりは「画像7」のように叢生する竹木のために視界が遮られて明確な比高差は分かりかねます。

画像クリックで拡大します
保美のバス停
凸7 東側の河川敷からの光景
 東側の河川敷のグランドから撮影したものですが、こちら側からでは樹木の繁殖のため肝心の河岸段丘の様子を観察することができません。
凸8 保美のバス停
 単純に、「地名の証」として撮影したまでのことにて、別段深い意味等はございませぬ。
バス停近くの柑橘類
交通案内

・県道13号線沿いの神流川左岸の河岸段丘に所在し、保美のバス停から徒歩3分ほど。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「鬼石町誌」(1984/鬼石町)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/2006/上毛新聞社)


・2008/02/15 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動