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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 長根陣屋 長根城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字下奥平字丑立(城)678ほか
歴史、人物、伝承

名門奥平氏発祥の地
 「中津藩史」に記されている奥平氏の系譜を記した「総叙」「世譜」「歴世」の項において、奥平氏は村上天皇(在位946-967)の皇子具平親王(ともひらしんのう)を祖先とする源氏後裔とされ、その第11代赤松播磨守則景の代に東国へ下り、源頼朝に従い甘楽郡司畠山小幡右衛門尉政行の娘と婚姻。その子氏行は児玉本庄左衛門尉家定の婿となり文治年間(1185-1189)甘楽郡司として、甘楽郡小幡庄奥平邑(下奥平)に「奥平城」を構えて奥平姓を名乗り鎌倉期を通じて代々甘楽郡司を務め大いに繁栄したとされています。(一部「吉井町誌」からの記述も引用)

 然しこの点については、中津奥平氏系図上ではこの間の1代の平均が僅かに15年ほどという些か不自然な期間を示しているとともに、また200年以上も前の時代に遡及し殊更に名門村上源氏の後裔とする経緯を誇示しているようにも思われます。さらに「地頭」ではなく敢えて甘楽郡司という古代律令制の官職名を用い、自ずと由緒ある家柄であることを強調しているような側面があるようにも見受けられます。
 同時に、奥平の地は甘楽郡司としての本拠地として捉えた場合には、「奥平」という地名が示すように、「中津藩史」においても「上野国北甘楽郡の極東にあり」と記しているように、地理的に余りにも甘楽郡の中心から外れ東側に偏りすぎているという事実も些か気にかかります。またこのこととあわせて、近世の石高でも奥平地域に限れば全体で約1215石、人口732人に過ぎないという七日市藩前田家の史料があり、これを基にして中世初期の生産力などの社会状況を想定しますと、多くともこの3割程度の水準ではないかと推定することができます。このことから結果的に奥平地域に居住可能な人口は、どれほど多く見積もったとしても300人ほどということになるものと考えられます。また、更にそのうち戦役・従軍に加わることのできる人数は概ね20人前後ではなかったかのかとも推定されます。
 この点については「中津藩史」においても「今日よりその形勢を概観すれば上州奥平は山間の一村落に過ぎず」「全村丘陵起伏の間、各部落点在し平坦の地は下奥平の一部に過ぎず」ともと評しています。

 こうした状況から、鎌倉期から南北朝期までの奥平氏は一定の由緒ある家柄であるという一方において、同族である小幡氏の勢力を除いた場合には、少なくとも甘楽郡全体を束ねるような大規模な在地勢力ではなかったという可能性も一概に否定できないようにも思われます。ただし、あくまでも憶測の域を出る性格ものではありませんし、かつ根拠に乏しい妄言のようなものであることを付言いたします。

南朝方として活躍ののち三河へと移住し、徳川氏に従い近世大名へと転身
 「中津藩史」などによれば、その後奥平氏は6代定政の時には新田氏に従い鎌倉幕府の滅亡に戦功をあげ、その後も南朝方として活躍。延文4年(1359)には懐良親王を奉じて九州へと転戦しますが少弐氏との合戦で討死を遂げます。その後、天授年間(南朝年号1375-1380)8代貞俊の時には三河国作手郷に移住して次第に勢力を伸長させたとされます。なお、この三河への転出理由は不明とされ(南朝方の軍事的崩壊、一族の家督争いなどが背景か?)、かつ作手郷における急速な勢力の拡大理由についてもあまり明確とは言い難い模様です。
 また一族の一部はそのまま奥平の地に残りますが武田氏の長野氏攻略により奥平城は落城し、その後は矢島姓を名乗り名主階層として帰農したとされています。このため近代における歴代村長には矢島姓の後裔の方々が複数散見されます。
 その後奥平氏は戦国時代には「姉川の合戦」「長篠の合戦」で戦功を上げ、信昌は徳川家康の長女亀姫を娶り、長男家昌は宇都宮10万石を拝領しその子孫は豊前中津奥平藩主となり、四男忠明は家康の養子となり松平の姓を受け大坂の陣の戦功により姫路18万石の大名へと出世し武蔵忍藩の遠祖となります。

確認可能な遺構
 郭跡、堀跡?
文化財指定
 1971年6月29 吉井町指定史跡
訪城年月日
 2008年1月5日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/05 )
 鬱蒼とした竹林
 河川の合流点となる畑の先端部分が東の端に相当する模様。つまりは城跡を道路が城跡を東西に縦断しているということらしく。まずは、この時期でないと入り込むことができない竹林を北側の崖線沿いの踏跡を辿り探索することに。竹林の切れ目に近い西側に僅かばかりですが、位置的に中途半端な印象の堀切ないし堀跡状の溝があるようなないような...おそらくは工場の建設の際の造成に伴って、西側の遺構は概ね消失している可能性があるのかも知れません。

 吉井町での探訪についてはこの日が初めてということもあり、明らかな事前の準備不足と資料不足でありました。このHP編集時点で見落としに気付いた事項が数多ありました。まず詰城とされる「馬場城」をはじめとして、周辺に所在していたとされる3か所の砦跡、奥平公廟所、奥平神社、仁叟寺跡、九台付近の屋敷堀跡、無量院跡の不動尊堂、水の手、八幡神社跡などの関連遺構を全く確認していないというお粗末な無計画性を露呈しています。多野郡方面の訪城は2008年4月末の時点で累計10回ほど。漸くどうにか土地勘が働くようになってきたこともありますので、今秋の山城シーズンの始めには必ずや再訪せねばと強く感じた次第なのでありました。

 なお、これも恥ずかしながら後から気がついたことですが、この山あいの閑静な中世城郭「奥平城」と、故あって昨年11月に訪れたあの「大坂城」とが奥平氏(松平氏)の系譜を介して一定の因果関係があったなどとは全く予想だにせず。すなわち大坂の陣の大坂城落城後に事実上の大坂城主となった人物は、誰あろうこの奥平氏の後裔松平忠明(まつだいらただあきら)その人なのでした。


画像クリックで拡大します
奥平城遠景
( 2008/01/05 東側から撮影 )
訪城アルバム
大手口付近の城跡の標柱と石碑
東側の郭跡
凸1 大手口付近 大手口正面の画像
 左側の石柱は「奥平史跡保存会」の方々の手により昭和12年に建立されたもので、現在では城跡らしさを端的に感じることができる唯一の場所なのかも知れません。

 城跡の由来を簡潔に記した現地解説版がこの左側の石柱脇に設置されています。ただし2か所ほど「末」であるべきはずの文字が、どうしても「未」としか読めないような気がするのでありますが...

 コンクリート製の擁壁と城跡の標柱の対比が、どことなく寂しげな光景に見えてしまう奥平城全景のアップ(北東側から撮影)

 奥平城へ向かう途中で撮影した冠雪した浅間山と奇峰妙義山の雄姿。
凸2 東側の郭跡
 管理人の想像力が貧困なため、どう見ても普通の畑にしか見えない東側の郭跡。この畑の中央付近に嘉暦元年(1326)に奥平定政が勧請したとされる源氏の守護神である八幡神社が所在していたとされていますが、大正元年(1912)には他の神社とともに創建された奥平神社へと合祀されたとのことです。

 また、大手口からの上り坂は僅かに比高差7mほどに過ぎませんが、周辺の物見を兼ねた3か所の砦跡との連携を考慮に入れれば、見通し自体に問題はなかったのかもしれません。

 桜沢側の切岸状の急斜面の西側には、「腰巻」と呼ばれている細長い腰郭(現状はたぶん畑)が所在するらしいのですが未確認です。

真冬でも元気な藪
主郭への唯一の進入路
凸3 竹林と枯草
 真冬でもこの状態なので、ほかの季節には近づくことさえ躊躇する完璧な防御体制が構築されておりました。

 城跡を含む周辺には城郭関連の古地名として、殿山、武道原、腰巻(腰郭)、徒坂、姥坂、止め場、御庫裏、文治屋敷、松屋敷、新屋敷、吉右衛門屋敷があるとのことです(「吉井町の文化財」ほかより)

 この竹林の奥の方には武道原との地名が残されていますが、現在は工場が所在し20年ほど以前には確認できた堀跡は埋め立てにより消失している模様です。それでも敢えてそれらしい地形を探しますと、竹林と西端には堀跡といえなくもないような 溝状の地形が残されておりました。
凸4 唯一の進入ルート
 竹林の中にひっそりと佇む主郭跡へは、この北側の崖沿いの細道を進むのがベストであると思われます。手前の方は幾分藪になっているようにも見えますが、奥の竹林は思いのほか見通しが良好です。

 とはいっても実際にはこんな感じの道が西方に約80mほど崖沿に続き、自然地形と思われる郭の突出部分に到達します。

 その南側には主郭部分へつながると思われる80cmほどの連続した段差が確認できますが、直接城郭遺構に関係するものかどうかは分かりかねました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
 吉井町公式HP ⇒ 内容については、「吉井町の文化財」に記載されているものと同一でした。
「人口から読む日本の歴史」(2000/鬼頭宏/講談社学術文庫)歴史人口学の入門書
「中津藩史」(1940/黒屋直房 著/1987国書刊行会からの復刻本)
⇒ 著者は奥平家旧臣の後裔。史実と伝承が混在する個所も見受けられますが、奥平を本拠地とした時代の史実は文献が乏しく詳細を明らかにすることは難しいとも述べています。しかし、昭和10年当時の奥平の人口(1087人)を記した上で、奥平氏の盛時には士農工商の人口数倍以上を超え収穫高は莫大であったことは想像に難くないとのやや不可解な見解も示しています。

・2008/05/03 暫定版HPアップ
・2008/05/03 「中津藩史」の入手に伴い記述を追加
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