凸小串氏の居館跡 北に鏑川、西に土合川を配した台地先端部に所在し、三ツ木城からの道と信州街道(国道254号線)が合流する交通の要衝を占めています。館跡の規模については町立かぶら幼稚園、入野小学校の敷地を含み、おおむね東西約250m、南北約100mの堀で囲まれた長方形状であったものと推定されています。 小串氏は観応の擾乱(1351)頃から在地領主として瀬下氏、神保氏らと共に上野の山内上杉氏に属していたと考えられ、永禄3年(1560)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に侵攻した際の「関東幕注文」の中に惣社衆の一員としてその名が記されています。その後も永禄6年(1563)の武田氏の上野侵攻により敗退して、小串氏は土着したものと考えられています。 しかし、小串氏とこの小串館を直接関連付けるような史料は残されてはいないとのことです。(「吉井町の文化財ハンドブック」「吉井の中世城館」等より)
( 2009/02/09 記述 ) 凸 堀跡の名残り 関係資料などによりますと、小串館に関係する遺構については殆ど現存していない模様です。それでもよくよく眺めますと、道路形状には部分的に堀跡外郭の名残りも感じとることができまし、また比高差7mほどの北側の崖線部分にも要害としての残滓を見てとることが可能です。 加えて主郭に相当する地勝寺境内の墓地には小串氏所縁の墓所も実在していますので小串氏との関わりを偲ぶことができます。なお館跡の南西約300mに所在する比高差30mほどの高さを有する台地上には小串城跡も所在し、館跡南西角から延びる道を南へと辿れば天神沢沿いの山道を経て小串城の東側(大手か)へと到達します。こうしたことから、戦時の詰城と平時の居館というそれぞれの用途を使い分けていたという状況も仄かに垣間見えたようにも思われたのでありました。
・いつもガイド の案内図です