群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
群馬県吉井町の城館索引へ戻る  小串館 小串館 小串館
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/28のブログ 小串城 峯山城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字小串字東組149ほか
歴史、人物、伝承

小串氏の居館跡
 北に鏑川、西に土合川を配した台地先端部に所在し、三ツ木城からの道と信州街道(国道254号線)が合流する交通の要衝を占めています。館跡の規模については町立かぶら幼稚園、入野小学校の敷地を含み、おおむね東西約250m、南北約100mの堀で囲まれた長方形状であったものと推定されています。
 小串氏は観応の擾乱(1351)頃から在地領主として瀬下氏、神保氏らと共に上野の山内上杉氏に属していたと考えられ、永禄3年(1560)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に侵攻した際の「関東幕注文」の中に惣社衆の一員としてその名が記されています。その後も永禄6年(1563)の武田氏の上野侵攻により敗退して、小串氏は土着したものと考えられています。
 しかし、小串氏とこの小串館を直接関連付けるような史料は残されてはいないとのことです。(「吉井町の文化財ハンドブック」「吉井の中世城館」等より)

確認可能な遺構
 堀跡
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月28日
訪城の記録 記念撮影

( 2009/02/09 記述 )
 堀跡の名残り
 関係資料などによりますと、小串館に関係する遺構については殆ど現存していない模様です。それでもよくよく眺めますと、道路形状には部分的に堀跡外郭の名残りも感じとることができまし、また比高差7mほどの北側の崖線部分にも要害としての残滓を見てとることが可能です。
 加えて主郭に相当する地勝寺境内の墓地には小串氏所縁の墓所も実在していますので小串氏との関わりを偲ぶことができます。なお館跡の南西約300mに所在する比高差30mほどの高さを有する台地上には小串城跡も所在し、館跡南西角から延びる道を南へと辿れば天神沢沿いの山道を経て小串城の東側(大手か)へと到達します。こうしたことから、戦時の詰城と平時の居館というそれぞれの用途を使い分けていたという状況も仄かに垣間見えたようにも思われたのでありました。


小串館跡、地勝寺内小串家墓所 ⇒ 画像クリックで拡大します
地勝寺境内の小串家墓所付近
( 2008/10/28 撮影 )
訪城アルバム
小串館の北側崖線
小串館主郭東側の堀跡付近(推定)
凸1 小串館北側の崖線部分
 現状でも6mから7mほどの比高差を有する小串館北側の崖線部で、「吉井町の文化財ハンドブック」によりますと、右側の住宅地については、かつて鏑川の流路の一部を形成していた模様です。
凸2 主郭東側堀跡付近
 現在は地勝寺境内方面からの雨水の流路のようになっていますが、かつては小串館主郭部東側の堀跡に相当していたもののようです。

小串館東側外郭堀跡の折
小串館東側外郭の堀跡
凸3 外郭東側堀跡の北部
 外郭の北東部付近で、切通し状の地形と右手の崖線部に城館跡の面影があるようにも思われます。
凸4 外郭東側堀跡の南部
 「凸3」から南へ50mほど進んだ辺りで、「中世吉井の城館跡」によりますと外郭東側の折歪部分に相当するようです。

小串館主郭跡に所在する地勝寺の南北朝時代の石仏 ⇒ 画像クリックで現地解説板の画像へ
小串館主郭に所在する地勝寺の本堂
凸5 南北朝時代の石仏
 正面の薬師如来坐像は南北朝期の作とされ吉井町指定の重要文化財。しかし、小串氏との関わりは不明です。
 現在は堂宇内に安置されていますが、かつては野ざらしの時期もあったらしく、この地域特有の牛伏砂岩を素材としているため幾分風化の度合いが進んでいるように思われました。
凸6 地勝寺境内
 小串館の主郭部分に所在する真言宗豊山派の広願山専寿院地勝寺で慶長10年(1605)の開山と伝わりますので、恐らく戦国時代の小串氏との関わりは無さそうです。
 元来の寺名は地蔵寺ですが、明治41年(1908)に東深沢の勝持寺と合併されたことにより改称されたとのことです。

大手口と推定されている辺り
通称「三角屋敷」と呼ばれる辺り⇒ 画像クリックで小串交差点信号機へ
凸7 小串館の大手口付近
 関係資料によれば館大手口部分と推定され、幾分折を見せる地形となっています。
 またこの道筋からは地勝寺庫裏の屋根を見通すことができます。
凸8 通称「三角屋敷」と呼ばれる付近
 国道254号線に面した個所で、大手口方面の防御区画であるとも考えられているようです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■郷土史
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)・「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)


・2009/02/09 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動