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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  中大塚城 中大塚城の南側土塁と堀跡 中大塚城南側土塁と堀跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/21のブログ 下大塚館小林館
所在地
 群馬県藤岡市中大塚下郷99
歴史、人物、伝承

小林氏一族の居城か
 「美土里村郷土史」によれば、その昔上・中・下の大塚3村は大前村と称されたとされる。また下大塚の地名は文和2年(1353)3月19日の足利尊氏寄進状に高山庄に属するものとして記載されていることから南北朝期初期には既に分村改名されていたと推定される。この3村にはその村の統治に関わりが深いと推定される城館がそれぞれに所在し、中大塚もその一つである。遺構としての残存状態は3者の中で最も良好であるものと思われる。「日本城郭大系」によれば、その別名を「駒形の砦」ともいう。
 南北200m、東西200mの不整形をなし明確な残存遺構としては主郭(内郭)の西辺に残存する長さ70mから80mほどの二重土塁と堀跡、および南辺の土塁と堀跡を挙げることができる。「藤岡市史」では北東部の千住寺境内一帯を不正多角形の郭とみているが他の外郭部分との関連からあくまでも外郭の一部として捉えたほうがより自然、であるように思える。また同史では高山氏一族小林氏の居城であり、小林館から天文年間以前に移住したと推定する旨を記している。

確認可能な遺構
 二重土塁、空堀、土橋?ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月21日 午前7時50分〜8時45分
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/12 )
 朝から快調
 何を隠そう実は前日の夕刻に紛れもなくこの西側の道路を通過していたのであります。しかし曇天の夕暮れ時に加え、地理不案内+空腹のためにその存在に全く気づかず通過するという大失態をおかしておりました(汗)
 また当日は早朝よりの訪問のため、多少は頭も冴えわたっているものと己の能力評価に大きな誤解をしておりました。実は入念に距離を測りつつ城館所在地へと接近するという手筈が、何と遥か西側の「平地神社古墳」のところまで行き過ぎてしまうというとんでもない不始末をしでかしました。
 とはいえせっかくなので一通り古墳の見学を行った後、徐々に西側の農道方面から遠景を確認しつつ本来の城館跡へとアプローチを開始しました。西側から眺める限りでは完全な平城で、自然地形としての起伏については極めて乏しい立地条件であることを確認しました。
 さて明確な遺構は先ず旧家西辺の延長70mほどの土塁・堀跡であり、土塁は堀跡を挟んで壮大な二重土塁の形式を構成しておりました。さらにこれに続く南辺の堀跡と堀底からの高さ3mを遥かに超える重厚な土塁も現存しています。 また北辺にも叢生する屋敷林に視界を遮られているものの明らかに同規模の堀跡と土塁が現存していることを確認しました。初っ端から所在地を誤ったとはいえ、これだけの遺構を目の当たりにして自然と手術後の膝の痛みも失念したのでありました。
  関係資料によれば北東に所在する千手寺方面を別郭とする考え方も示されていますが、寧ろ外郭の一部として捉えるべきではないのかなどと独り言を呟きつつ、 南西側の外郭部の曲折個所を含め周囲を反時計回りにぐるりと一周半したのちに次の目的地へと速やかに移動することとしました。

「中大塚城」の南側堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
中大塚城南側堀跡
( 2008/10/21 撮影 )
訪城アルバム
平井金山城、子王山城方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
「中大塚城」の北側 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 平井金山城方面
 今日も天気だ城館日和♪♪前日、当日と天気予報が外れほぼ快晴。このため平井城の詰城とされる平井金山城、子王山城を始めとする山城が一望に。刈田跡にのびる影の長さに、この日の時間のゆとりを感じるのでありました。
凸2 主郭北部の遠景
 この主郭北辺ににも肉眼では西辺と同様の堀跡と土塁を確認できますが、このようにかなり薄暗い環境のために詳細な様子については甚だ分かりにくい状況となっていました。

「中大塚城」東側の外側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
「中大塚城」南側土塁と堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭東側の土塁
 道路沿いの外側部分の土塁跡で内側の堀(堀幅は上面で5m以上、内郭側の深さは2m以上)を挟んで極めて防御性の高い二重土塁の構造となっています。
 なお、この外側土塁の規模については、手前の道路の拡張工事などによりある程度縮小されているように思われます。また、南側の堀跡はかつては水堀であったとの事情から、この東側の堀跡についても同様に水が引かれていたものと想定されます。
凸4 南辺東側の堀跡と土塁
 内郭南辺の遺構で堀跡はだいぶ埋まりかけてはいるものの堀幅5m、深さ最大2mほどの規模があります。また土塁部分は郭側で高さ最大3m、堀側では4mの高さを図ることができます。
 なお、堀跡廻りには相当量の石垣(石積み)が散見されますが、大半のものはその工法などから見る限り後世に堀跡法面の崩落を防ぐために設置されたものと推定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)

・2008/11/12 HPアップ
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