凸戦国時代初期の屋敷跡か 動堂城跡の南側にほぼ隣接した位置に所在し、平成9年度の発掘調査では出土したその遺物から15世紀後半から16にかけて営まれた屋敷跡と推定している屋敷跡と構堀遺構が確認されている。出土した遺物の中に中国製磁器、板碑などが含まれていることから村落の支配層(在地土豪)の屋敷跡であるという可能性も想定される。また動堂城に極めて近いことから、その家臣筋にあたる一族の屋敷(居館)であった可能性も想定されよう。 なお上信越道を挟んだ南側地区では、こちらよりも規模の大きな方60mの中世の方形館跡が検出された原屋敷遺跡が所在している。
( 2008/11/07 ) 凸 広がる田園風景 現状は平坦な水田と畑となっておりますが、以前の発掘調査により薬研堀状の溝(ただし近世のものと推定)、板碑等を含む屋敷遺構が検出されその遺物などから中世の屋敷跡と推定されているようです。折から近くの水田では収穫作業の真っ最中で小型コンバインが大活躍をしておりました。尤もメーカーは井関(遺跡)かどうかは分かりませぬが..(笑) なお小字「屋敷前」という地名は、溝口氏の旗本陣屋(代官陣屋か)の存在に因むものと推定されるのではないかとも考えられますが、芦田氏一族の依田小隼人が動堂に居城穂構えた際に「屋敷前」に居住したとの伝承もありこの点については定かではないようです。
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