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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  馬庭城 馬庭城のバナー 馬庭念流道場
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/01のブログ 中林城 入道谷屋敷
所在地
 群馬県高崎市吉井町大字馬庭字内出
歴史、人物、伝承

戦国期馬庭氏の居城
 戦国期の馬庭氏については、永禄4年(1561)越後上杉氏の関東幕注文には上杉方の総社衆馬庭氏として記されている。しかしその後永禄6年頃と推定される甲斐武田信玄による西上州攻略によって武田氏の傘下に帰属したものと考えられ、永禄10年(1567)の生島足島神社起請文(写)には高山衆ともに連名した馬庭中務小輔家重の存在が確認されている。なお元亀3年(1572)には小幡弁丸知行宛行状、天正8年(1580)判物写(富田文書)では馬庭の地が馬庭氏以外に宛行われている。また中務小輔家重は永禄6年頃に武田氏に敗れ討死を遂げたとの説もあり、その当時の縁戚であった高麗家がその跡を継いだともいう。
 幕末の天保年間に記された「上毛古城記」によれば城主として馬庭中務小輔家景(「重」の誤記か)の名が記され、宝暦年間の作とされる「上州古城塁記」によれば、後風土記(「改正後三河風土記」か?)天正10年(1582)神流川合戦の際に出陣した上州諸将のなかに真成(「馬庭」の誤記とも)の名が見えると記されている。
 また 「吉井町誌」などの記述によれば、木曽義仲四天王の一人に数えられた樋口兼光を祖とする信州伊那出身の樋口高重は、念流を習得し上野国吾妻郡小宿に移住し、延徳元年(1489)に関東管領上杉顕定に仕え、600貫文の所領と共に15騎を預かる身分となった。しかし永正7年(1510)越後国長森原で長尾為景の軍勢と戦いで主君顕定が敗死した後には、馬庭村入道谷に隠遁し屋敷を構え剣術・兵法の指南を行った。その後天正18年(1590)以降、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城となっていた馬庭城の地に移住し剣術・兵法の奥義を伝え、現在でも主郭北東外郭部には念流馬庭道場の建物が所在している。

確認可能な遺構
 土塁(櫓台)ほか
文化財指定
 なし、但し馬庭念流道場は関係文書と共に1956年6月20日に群馬県指定史跡となる
訪城年月日
 2008年 11時30分から11時45分
訪城の記録 記念撮影

( 2011/01/20 記述)
 ひだまりネコさん
 早朝の出発のため、午前5時かっきりに目覚ましのアラームが鳴り響いた。しかし日の出まではまだ2時間近くもあった。布団の足元には正月のお供え餅のようにして眠る2匹の猫たちの姿。元来早起きが苦手な体質に加え、この上ない幸せそうな寝顔を眺めているうちに二度寝の態勢に突入。このため漸く家を出たのは午前9時という余りにルーズな出陣。
 さてこの日の最初の目的地は旧吉井町の馬庭城で、馬庭念流道場のところが城跡のためウロウロと所在地を探すような心配はだけは皆無。現状の地形から確認できる遺構は、内郭部の北西に鎮座する神社(摩利支天の祠)の高さ1mほどの土塁と明らかな折が見られる内郭南側の堀跡の窪みくらいでしょうか。鏑川の東岸にあたる城跡西側部分は高さ約10mの崖線地形を呈しているとのことでしたが、直接確認するのを忘れてしまいました。
 飼い猫と思われるネコさんが暖かな日差しを浴びて空地の端で気持ちよさそうにお昼寝中でした。あちこち拝見している間に居心地が良いのか当方の車のボンネット上で気持ちよさそうにお昼寝を継続中。昨日も近所の子猫と親しくなったので、暫くそのままにしておこうとも思ったものの、先を急ぐため猫さんを驚かさないようにそっと下ろして次の目的地へと移動を開始。


馬庭城北西櫓台跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
馬庭城櫓台跡
( 2008/12/01 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで馬庭念流道場の現地解説板へ
主郭南側付近の堀跡?
凸1 馬庭念流道場
 城跡の北東部に所在する慶応3年(1867)に建てられた馬庭念流道場は、その関係文書168点と共に1956年6月20日に群馬県指定史跡となり、現在でも樋口氏の後裔により継承されているとのことです。
凸2 主郭南側付近
 主郭南側付近に所在していた堀跡とも思われる窪地の画像です。山崎一氏が記された略図によりますと、概ね直線状の地形を表していますが、現状では「中世吉井の城館跡」に記されているように、幾分カーブ(折)を描くような地形を呈しておりました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 ⇒本書では、「北甘楽郡誌」の記述を引用して、北方に所在する中林城を馬庭城と呼称していますが、「城郭大系」以降ではそれぞれ中林城、馬庭城とに分けて記載されています。

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記上毛古城記上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収


・2011/01/20 HPアップ
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