凸剣術兵法者樋口高重の屋敷とも 「吉井町誌」などの記述によれば、木曽義仲四天王の一人に数えられた樋口兼光を祖とする信州伊那出身の樋口高重は念流を修め上野国吾妻郡小宿に移住し、延徳元年(1489)に関東管領上杉顕定に仕えし600貫文の所領とと共に、15騎を預かる身分となったという。しかし永正7年(1510)越後国長森原で長尾為景の軍勢と戦いで主君顕定が敗死した後には、馬庭村入道谷に隠遁し屋敷を構え剣術・兵法の指南を行ったという。その後天正18年(1590)以降に廃城となった馬庭城に移住して剣術・兵法の奥義を伝えたといわれている。 城館名については「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」より引用した。ほかに入道谷(「中世吉井の城館跡」) 入道谷館(「多野藤岡地方誌」) 入道が谷屋敷(「吉井町誌」「吉井町の文化財ハンドブック」) などの表記を確認できる。なお「角川日本地名大辞典 群馬県」によると地名としての読み仮名は「イリトウヤツ」と呼称する旨が記されている。
( 2011/01/17 記述) 凸 遺構不存在を確認 入道が谷屋敷跡は中林城の直ぐ北東の丘陵先端付近に所在していますが、こちらは中林城とは異なりさらに自衛隊の基地内という悪条件。しかも以前に発生した崖崩れのため、屋敷跡そのものは消失しているとのことでした。このためあくまでも丘陵の遠景などを確認がすることを第一の目標としました。 まずは唯一遠景を望むことができそうな西側の戸建住宅団地へと移動を開始。ところが樹木のためになかなか遠望できるような適当なポイントが見当たらず。また自衛隊基地の存在と共にその北側に隣接するゴルフ場のために踏査する行動範囲そのものもも限定的です。結局、あちこち探して団地の給水タンクが所在する見晴らしの良さそうな高地を目指すことにしました。確かに南方の見晴らしは抜群で中林城を背後から俯瞰できます。然し肝心の入道が谷屋敷ーが所在したと推定される丘陵先端部付近は完全に樹木の陰となっていました。 ところが散策路のような細道が延々と目的地方面へと続いている様子が窺え、 これ幸いとそのまま道を辿る幸いなことにとゴルフ場と基地のフェンスに両側を挟まれた丘陵先端部へと到着することとなりました。こうして基地の金網越しではありましたが、完全に消滅したとされる屋敷跡付近を確認することにも成功。 このあと曇天とはいえ日没時間までには未だ3時間近い余裕もありましたが、しかし母が入院し危篤ともとれるような2度目の連絡を受けて取り急ぎ帰宅することと相成りました。 ※なお私事ながら実母(享年88歳)が亡くなりましたのは、こちらを訪れた2日後のことでした。
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