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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  中林城遠景 中林城のバナー 中林城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/11/10のブログ 岩崎城
所在地
 群馬県高崎市吉井町大字馬庭字中林
歴史、人物、伝承

馬庭氏初期の城館跡とも
 西方に所在する岩崎城と同様に鏑川北岸の丘陵先端部とその山麓を城域としているが、山城部分の削平地についてはあくまでも物見台程度の極めて小規模なものであり、東西の谷津に挟まれた南山麓の居館部分を主たる活動の拠点としていたものと推定される。
 「吉井町誌」などによれば、戦国期に南部の馬庭城を中心に活動したとされる馬庭氏初期(「鎌倉期の館に近い」との見解も)の城館跡であろうとの説を提示している。
 なお、戦国期の馬庭氏については、永禄4年(1561)越後上杉氏の関東幕注文に総社衆馬庭氏として記されるとともに、永禄10年(1567)の生島足島神社起請文に高山衆ともに連名した馬庭中務小輔などの活動が確認されているが、元亀3年(1572)小幡弁丸知行宛行状、天正8年(1580)判物写(富田文書)では馬庭の地が馬庭氏以外に宛行われている。

確認可能な遺構
 堀跡、物見台、平場ほか
文化財指定
 1994年6月27日古代から中世に至る複合遺跡として町指定史跡(旧吉井町)
訪城年月日
 2008年11月10日 10時25分〜12時30分
訪城の記録 記念撮影

( 2011/01/15 記述)
 物見台と山麓の居館
 事前の情報では平地の居館部分と背後の比高差約50mほどの郭からなる城郭とのこと。平地の主郭に相当する部分には土塁跡が残るともいわれてましたが、耕地化・宅地化などにより現在では確認が難しい状況にありました。堀跡の方については辛うじて西側の谷津を利用した堀跡地形に何とかそれらしい雰囲気をとどめるのみでした。主郭西側の小古墳の上には「地四郎様」を祀る小祠が所在し、複合遺跡としての「中林遺跡」に関する説明板(一部やや意味不明な個所も)及び文化財標柱も設置されていました。
 一方、背後の山上の物見台方面は、一見して篠竹を含む手強そうな藪に覆われた様子が遠目にも明白な状況。また自衛隊の武器弾薬庫と直に接しているためにある程度の行動の制約も予想されました。このため取敢えずはア山城部分にプローチするルート探しからスタートし、やはり東側から物見台北側の尾根筋に取り付くのが正道と判断。これにより先ず東側の堀跡とされる道路を北上すると、地図に示されているとおりこの道路は基地のフェンス手前で行止りとなっておりました。
 しかしよくよく見ると民家庭先の北側を西の尾根筋へと向かう細い道が確認できます。この道をそのまま道なりに進むと、防空壕跡を左側に見たあとやはり北側の基地のフェンスで行止りとなっています。この地点からは目前に尾根筋が見えることと合わせ、フェンス沿いに道を辿ることも物理的には可能なのでそのまま西進することに。
 途中から定番の蜘蛛の巣と棘に阻まれつつ、斜面の角度も45度となるも委細構わずひたすら稜線を目指して直進することとなります。より具体的にはネットフェンスの網に掴まりながらの斜面登攀。と表記すると何やら大変な行動のようにも思われますが、実は目標の尾根筋まではせいぜい直線にして80mほどの至近距離で、かつ比高差も僅かに40mほどしかありません。このため手術後の右膝に対する負担も殆どありませんでした。
 稜線部への到達後には、そのまま尾根筋を南下して、始めに北側の平場状の削平地(東西約5m、南北12mほどの小郭)の確認作業を実施。この地形については、尾根筋全体の形状から観察する限りでは明らかに人手が加わっていることは明瞭と判断。ただし自衛隊の駐屯地に近接していることから、後世の地形改変の可能性も皆無とは言い切れないような印象も。無論鬱蒼とした樹木が叢生するため眺望は限りなく皆無に近く、また周囲に竪堀、堀切などのの形跡も見られません。
 次に50mほど稜線南側にすすんで物見台(南北約5m×東西約10mほどの楕円形)とされる尾根筋の先端部へと移動。しかしこの個所も北側削平地と同様に現状での眺望は皆無でした。ただし物見台南東部には竪堀状の地形が存在しています。ただし物見台削平地の規模と比較しますと、竪堀の幅が大きすぎるという印象も少なくありませんでした。この点については、岩崎城西側の竪堀と同様に「竪堀+自然地形」と見るのが妥当であるのかどうか検討の余地がありそうに思われました。

※2008年10月以降に探訪した城跡の更新作業が著しく遅延しています。偶々前記の竪堀状地形を撮影している真最中に母が入院した旨の連絡を受けましたが、その僅か2日後に亡くなったことなどが影響していたのかも知れません。                                        (2011年1月15日記述)



中林城の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
眺望に優れるはずの中林城遠景
( 2008/11/10 撮影 )
訪城アルバム
稜線部への最短ルート
物見台北側の平場地形
凸1 稜線部への最短ルート
 城跡の東側は1956年3月に竣工した陸上自衛隊武器補給処、吉井弾薬支所ならびに吉井分屯地の敷地で立入り厳禁です。しかし急斜面の登攀には有刺鉄線付ネットフェンスの存在が不可欠であり、却って有難味さえも感じるのでありました。
凸2 物見台北側の平場地形
 南北約5m×東西約10mほどの楕円形を呈していますが、東山麓の旧帝国陸軍関連のものと思われる防空壕の存在や戦後に建設された自衛隊基地とやや近接していることなどから、後世における地形改変の可能性などを一概に否定できるのか判断に迷います。

物見台と推定される平場 ⇒ 画像クリックで拡大します
東麓付近から山城部分を撮影
凸3 物見台と推定される平場
 削平地は南北約5m×東西約10mほどの楕円形を呈していますが、現在は樹木に覆われているため殆ど眺望を得ることができませんでした。
凸4 東麓付近から
 東麓付近から見上げた限りでは本来は眺望に優れた立地条件であったことが推定できますが、南端部物見台部付近の植生環境は先の画像のとおりでした。
交通案内

・南側集落からの比高差は約50mほど

いつもガイド の案内図です(山城部分) いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2011/01/15 HPアップ
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