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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2007/12/30のブログ 子王山城 清水山城
所在地
 群馬県藤岡市下日野駒留
歴史、人物、伝承

在地領主黒沢氏に関係した山城か
 鮎川(あいがわ)が大きく南北方向に蛇行する左岸に張り出した尾根筋の先端部分に築かれたこの山城については、日野七党といわれた在地武士黒沢氏の屋敷跡推定地が南東200mほどの地点に所在していることから、黒沢氏に関連した山城と推定することが妥当なものと考えられています。また、黒沢姓そのものは群馬南西部に多く分布しているとのことですが、駒留黒沢氏の出自については陸奥国の安倍氏、安倍貞任の弟・正任を氏祖とし、陸奥国黒沢尻(岩手県北上市)に因んだものと伝わっています。(「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」より)

■「日野七党」について
 日野七騎、日野七基、日野七旗、日野七氏などともいわれていますが、系図・由来など文献ではなく口碑によるものであるため確定したものではないとされています。「多野郡誌」によれば、小柏氏、酒井氏、小柴氏、黒沢氏、柴崎氏、高山氏、笠原氏などの旧家がこれに相当すると例示していますが、このほかにも後藤氏、飯塚氏、片山氏、山田氏、福田氏、岡崎氏などの旧家を示しています。
 戦国期の黒沢氏については武田氏支配下の永禄8年(1565)三ツ山(浄法寺城とも)城主長井正実より黒沢玄蕃允宛の渡瀬高山分3貫200文他の所領宛行状、黒沢源三宛の30貫500文の新規所領宛行状などが残されていますので、この時期には長井氏を通じて甲斐武田氏の支配下に置かれていたことが推定されます。(以上は「藤岡市史 資料編」より)
 「元禄郷帳」、「天保郷帳」さらには「旧領旧高取調帳」(明治初期の編纂)などによりますと、下日野の集落は鮎川沿いの峡谷に点在していることから、その石高は何れも329石とされており明治初期には140戸の民家が所在していたことが記されています。そこで戦国期の黒沢氏の本拠地がこの下日野を中心とした領域であると仮定し、仮にこの数値を参考に生産力、人口の数値から想定すると、その軍役は当主を含めて概ね数名程度が上限ではなかったかということが想定されます。また当城は上杉氏、武田氏、後北条氏と上位支配者が変遷して、最終的には天正18年(1590)の小田原攻めにより事実上の廃城につながったものと考えられます。
 なお、城名については大字下日野字駒留に所在することから駒留城(まかぶじょう)と呼称されています。なお現在の地名は「駒留」と表記されていますが、古くは「馬荷鉾」とも記されたとのことですが、明治初期の小字名としては「駒ブ」(こまぶ)という表記も残されているようです。(以上は「角川日本地名大辞典 群馬県」より)

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、堀切、石積?
文化財指定
 
訪城年月日
 2007年12月30日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/12/30 )
 落雷により落城
 黒沢屋敷近くに所在しているので、そのまま引き続いて小学校脇の谷川沿いの道を辿り城跡へ。比高差は僅か90m弱で然も緩い上り道であるにもかかわらず、次第にメンバーから遅れ始める8割方体力が枯渇した管理人。
 主郭付近では、何と北側の大木が落雷により倒壊し大きな穴があくという著しくワイルドな光景が眼前に広がっておりました。何れ大木が朽ち果てた後には、焦げた木片などの遺物とともに「謎の狼煙穴跡」などと論争になる恐れがあるやも知れませんので、ここにしっかりと明記しておきまする。
 さて主郭の南側には地守神社奥社と思われる石祠が所在しているため古い参道の下り道がが南の神社へと続いておりました。下り道としては至って便利な九十九折りの急坂ではありましたが、再びこれを登れといわれるといたしますと、最早その場に呆然として立ち尽くす以外にはこれといって手立てはございませんでした。

画像クリックで拡大します
駒留城(南東の公民館側から撮影)
( 2007/12/30 撮影 )
訪城アルバム
駒留城の遠景 画像クリックで拡大します
この地域ではよく目にする新しい石垣
凸1 駒留城遠景
 先ほどまでの雨空が嘘のように晴れ渡り始めた爽やかな昼下がり。年末のために殆ど人気のないこちらの公民館の駐車場に車を停めさせていただいて、一人を除き元気に出発。
凸2 新しい石垣
 腹は減ってもそこに城があれば一目散に山城へと向かう二人連れ。しかしこの時点で、もうすでに遅れている体力の枯渇している管理人1名が畑あるいは住家跡の石垣をこれ幸いと撮影がてらにひとやすみ。
石垣素材は潤沢
次第に城跡らしく

遺構かどうかは曖昧な地形 画像クリックで拡大します
主郭北東側に残る石垣 画像クリックで拡大します
凸3 謎の地形
 尾根筋の手前東側の谷沿いの山道から見上げる限りではどことなく郭のようにも見えてしまうような地形ですが、反対側に回ると削平されたような形跡も殆どなく自然地形の可能性が大きいようなのでありました。
凸4 石積遺構
 「藤岡市史 資料編」にもその存在が記されている主郭北東の尾根筋に所在する遺構。現在でも確かに尾根筋の郭部分の崩落を防ぐ役割を果たしていますが、後世に補修されたという可能性も考えられ、幾分どことなく新しさを感じなくもないという印象が拭いきれないのでありました。
北側尾根筋の堀切状地形

主郭南側小口部分
主郭南側下段の腰郭 画像クリックで拡大します
凸5 主郭小口
 余り明確とは言い難いものがありますが、おそらく主郭の南側小口に相当する地形ではないかと考えられますが、主郭に所在する石祠の参道を兼ねているため判断が難しいところです。

落雷の被害にあった主郭
被害のない主郭南側部分
凸6 腰郭
 主郭南側の尾根筋上に三段に分かれた最下段の腰郭で、奥行きは最大で6m、東西の長さは約35mほどの比較的大きな規模を有しています。このことから、南側からの敵勢侵入を防ぐための小口郭のような役割を果たしていたのかも知れないなどと次第に想像の輪を広げるのでありました。
交通案内

・日野中央小学校北西の裏山で比高差は90m弱
・往路は東側の谷沿いの道を北西に進み、帰路は南側の地守神社への道を下る方が楽です。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「旧領旧高取調帳」(1980/近藤出版社)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/2006/上毛新聞社)

・2008/02/03 HPアップ
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