凸倉内弾正の居城と伝わる 甘楽町史によれば、山崎一氏作成の縄張図(1977年2月)とともに構造の詳細について記されている。それによれば東西115m、南北130mの城域を有し、本郭は東西70mから100m、南北80mを測り南側を除いて帯郭状の地形に囲まれていた様子が窺える。しかしその現状は近年の宅地化などに伴い、東側並びに北側の崖線部分に僅かに城跡らしさを残すのみとなっている。 城跡の経緯についても倉内弾正(小幡信高とも)の城跡と伝わり、白倉城の白倉氏と争ったとされるのみでその詳細は不明である。村高は天引村全体でも「寛文郷帳」では774石に過ぎず、あくまでも小規模な在地領主階層から発達した館城であったという印象が強い。
( 2011/05/12 記述) 凸 正しく城跡 東西を天引川とその支流に挟まれた南から伸びる丘陵先端部に占地する小規模な城館跡です。下記の画像のように、台地全体としては城跡に相応しい地形を示してはいますが、近年の宅地化、耕地化の進行により遺構自体はほぼ消滅しているに等しく、全体的には城跡らしさを捉えづらいものがありました。 無論、東辺の台地斜面に残る切岸の一部?と思われるような地形、郭内の堀底道?、西辺から北辺の崖線部分などに城跡としての痕跡を辿ることはある程度可能なのかも知れませんが、如何せん些か厳しいという印象でした。
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