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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/02のブログ 本郷城 上池館 奥平城
所在地
 群馬県高崎市吉井町大字岩崎字足沢下谷
歴史、人物、伝承

岩崎佐衛門の居城とも
 吉井町誌などによれば、岩崎山密蔵院覚性寺に所在する宝徳元年(1449)と記された位牌および、弁天池の中の島に残る石塔などの存在から、15世紀中頃の岩崎佐衛門入道に関わりのあった城郭であったことが示唆されている。ただしこの岩崎氏の出自やその事績を物語るような記録類は残されてはいない。
 甲斐武田氏の支配下に置かれた戦国時代後期の永禄7年(1564)には、井上勘解由(清重)が倉賀野(城)を攻略するにあたり戦功を証した武田信玄の感状(印判状)が伝わるとされ、井上氏は後に岩崎に居住したとされている。しかし、井上氏とこの岩崎城との関連についても不明である。
 また、西麓に所在する弁天池は近世に城跡の西麓直下を南流していた足沢川の流れをより西側へと移し変えて灌漑用水として築造されたものだという。

確認可能な遺構
 主郭、土塁、帯郭、竪堀、腰郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年11月5日 14時30分から15時40分
 2008年12月1日 12時00分から13時30分
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/05 )
 篠竹の藪城
 この日の予定の中ではある程度遺構の存在を期待できる城館跡の筈でした。山城形式とはいえ比高差は僅かに50mほどなので、右膝手術後の足回りの状態ではこの程度の負荷が試金石に相応しく思えまたのです。。西麓の弁天沼越しの城跡が所在するという丘陵地帯はなかなかに落ち着いた佇まいを見せ、弁天沼堰堤から続く山道の状態も途中までは極めて良好で、南麓最下段の腰郭地形および郭東側の堀底道も味わいさえ感じられました。
 しかし、ルートが順調なのはあくまでもここまでの話。隣接する化学工場とネットフェンスで仕切られた稜線部分は、行く手を阻む蜘蛛の巣と背丈に届かんばかりの雑草にぎっしりと覆われておりました。雑草の藪潜りは、その間北へ約200mばかりの行程。体中にこれでもかとばかりに纏わりつく棘、つる草その他の障害物を乗り越え踏みしだき前進。ある程度は距離自体を把握していても、兎に角目先の見えない藪潜りに辟易。主郭を過ぎた辺りの鞍部付近にて、堀切状の形跡が無いことを靴の先で確認するような始末に。
 この地点付近から南方に所在する岩崎城主郭方面へと大きく方向転換。なお植生もこの辺りから篠竹へと変容し、これがまた、途方も無く密度の高い竹藪で予め用意していた資料が無ければ脱出不可能なほどの密生度。主郭北側の低土塁(高さ約1m、長さ数m)さえも屈んで篠竹の間から覗かねば分からない状況です。また径30mほどの楕円形とされている主郭の全容についても、辺縁部はおろか足元さえもろくに見えない状態となっておりました。
 このあと直ちに南側の堀跡、腰郭と推定される方向に向けて移動を開始。しかし雑草の藪とは異なり篠竹の藪は頑強で全く体が前に進まず。止むを得ず幾分密度の低そうな個所から下降を開始。然しいくら下っても腰郭・帯郭付近の平坦地には到達せず。疑問に思い篠竹の藪から抜け出たところで現在地を確認。すると恥ずかしながら長さ100mほどの竪堀をそのまま途中まで下ってしまっていたのでありました。
 ここで全体状況から考えうるに、この藪では仮に元の位置に戻ったとしても日没の条件などから遺構確認はもはや困難と判断。かくてそのまま林道へと下山を続行しました。多分2月頃でもこの篠竹の藪そのものは健在と推定され、仮に再訪するとすれば西へ迂回して南側の斜面から取り付くか、下りてきた竪堀を這い上がるかというように、比高差は殆ど無いものの正に難攻不落なのでありました。       (2011/01/14記述)

( 2008/12/01 ) 再訪
 堀跡消失か
 本来は時間の都合でパスする予定のはずでしたが、その山麓を通ることから足が自然に向かってしまったのでありました。前回のときには想像を超える藪に阻まれたとはいえ、南側の腰郭、堀跡が未確認という大失態を演じることに。あれから約1ヶ月ほどが経過し、夏草の藪の大半は枯草に変貌しておりました。とはいっても相変わらず「ひっつき虫」のような雑草の種子の影響で忽ち再びハリセンボンのような姿に。また篠竹に覆われた主郭部分の見通しの悪さは殆ど変わりません。
 今回は主に南側の遺構状況確認のため、主郭から南に向けて真直ぐに降下するルートを採用。無論ルートといっても高さ3mほどの篠竹が密生した藪を方位磁石を頼りにただひたすら直進するのみ。転倒に注意し姿勢を低くして足元の地面の変化に注意を払いつつ前進を阻む篠竹と格闘の連続。とはいえ、視界は最長でも5mほどと経験上では最悪の状況に。所によっては2mもないような個所も珍しくはなく(苦笑)
  このため比高差2mほどの2段に分かれた切岸状地形は確認できたものの、地面が窪んだ堀跡らしい地形は未確認のままに終わりました。15年以上前の吉井町の関係資料によれば、その存在が確認されていることとなっているので勿論当方の見落としの可能性も想定されますが、現在篠竹が密生する藪は以前には桑畑であったことも判明し、 ことによりますとその時点以降から耕作等によって相当程度埋没するような結果となったのかも知れません。                                        (2011/01/14記述)

弁天池から眺めた岩崎城 ⇒ 画像クリックで拡大します
西麓の弁天池から眺めた岩崎城
( 2008/11/05 撮影 )
訪城アルバム
弁天池堰堤を通過するルート ⇒ 画像クリックで拡大します
堀底道と郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 弁天池堰堤
 画像中央部に見える城跡へはこの弁天池の堰堤を渡り終え、そのまま道に沿って画像右手の山中経由して主郭方面を目指すことになります。
凸2 堀底道と郭状地形
 画像1から続く岩崎城南端部の郭状地形ですが、一部を除いて篠竹の繁殖が旺盛なために全体の地形を確認することが困難となっておりました。

岩崎城主郭方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭下段の切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 岩崎城主郭方面
 主郭と思われるピークを東側より撮影したものです。関係資料などによりますと、主郭東側に登り口(小口か)あるらしいのですが、この主郭部へとアプローチするだけならば北側の鞍部から南下する方が容易でした。
凸4 主郭下段の切岸
 主郭自体の切岸の高さは約6mほどを測り、さらにその下方に高さ1mほどの切岸状の地形が存在していました。かつての縄張図からは、恐らくはこの切岸状地形に空堀が随伴していたものと推定されます。

藪の中より牛伏山方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
桑畑跡
凸5 藪の中より牛伏山方面
 篠竹の高さが背丈を遥かに超え、その上に冬枯れ前の雑草の枯葉が堆積し視界の確保に難渋しました。その途中で偶々篠竹の低い部分があったので、運よく一郷山城、鏑川方面を眺望することができました。
凸6 桑畑跡
 左の画像の個所から再び篠竹の藪へと潜り込み、東側へと移動すると、かつての桑畑跡(中腹の郭跡)の平場へと到達します。2度の踏査を行いましたが、その全容を把握しにくい屈強な藪城でした。
交通案内

・比高差約50m、但し篠竹が繁殖した藪城

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2011/01/14 HPアップ
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