群馬県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
群馬県吉井町の城館索引へ戻る  上池館遠景 上池館のバナー 上池館西側断崖
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/11/05のブログ 池の岡城 
所在地
 群馬県高崎市吉井町池1530付近(旧吉井町)
歴史、人物、伝承

高橋氏の城館跡とも
 城館跡北端部に建立されている稲荷神社由緒碑文には、12世紀末頃に高橋判官大宅長綱が築城し、その後戦国時代には小泉城主富岡氏に属して後北条氏の勢力下に置かれ、江戸時代に入り幕府直轄地として代官所が置かれていた旨などの地元旧家の伝承および経緯などにについて詳細な文言が刻まれておりました。なおこれらの伝承・経緯の内容等については、所収されている資料によって多少の相違も散見され、史実との関連性については別途検討を必要とする部分も含まれているのかもしれません。
 鏑川右岸の高さ12m以上を測る崖線部上に所在し、南北約100m、東西約80mの範囲が城跡と推定されていますが、近隣に所在する「池の岡城」と比較するとやや小規模なものとなっている印象があります。
 城館名の読みがなについては、他に「うわいけ」「うえいけ」なども考えられますが、上下に分かれた地名の場合には通常「かみ・しも」と呼ばれることが多いことから推定したものにすぎません。同地については伝承地名として「堀の内(ほんのうち)」とも呼ばれています。。

確認可能な遺構
 土塁?、空堀?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年11月5日 11時25分から12時10分
訪城の記録 記念撮影

( 2010/12/29 )
 鏑川の通行監視の役割
 鏑側右岸の侵食を受けた崖地端に所在し西側部分の防御は鉄壁です。残りの三方に空堀と土塁が築造されていたものと推定されていますが、現在確認できる遺構は北辺塁跡の一部とも思われる石積み部分に加え、強いてあげますと南側の空堀跡とされる僅かな窪地地形ぐらいでしょうか。以前に作成された資料などにに示されている北側の堀跡などについては現状ではほとんど確認できませんでした。また、「日本城郭大系4」によりますと、残存する遺構の時代背景については幕府代官陣屋当時のものであることが記されています。
 この後は北端の稲荷社に建立されている石碑を撮影させていただいて現地での作業を終了し、この後鏑側対岸からの遠景を撮影するため移動を開始しました。現在の浄水場が所在する辺りの対岸からは、断崖の様子も明確に把握することができ、背景の山稜には「一郷山城跡」の模擬天守台がも視野に入っておりました。


上池館遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
上池館遠景
( 2008/11/05 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2010/12/29 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動