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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  後藤屋敷 後藤屋敷−群馬県藤岡市 奈良山集落の春日神社
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/18のブログ 七村城 鼠喰城
所在地
 群馬県藤岡市上日野字奈良山
歴史、人物、伝承

七村の後藤氏が来住
 地元の伝承などによれば後北条氏家臣であった後藤五左衛門基明が、後北条氏滅亡後に十数名の家臣と共に鮎川上流の七村に土着して七村城を築城。そののち後藤氏は、鮎川下流の奈良山に移住して後藤屋敷を構え、のちに小柏姓(日野七騎の一家)に改めたとされています。(「藤岡市史資料編」「日本城郭全集」などより)
 後藤氏の出自にも藤原氏説、平氏説などの諸説があるとのことですが、その詳細は不明のようです。(「藤岡市史原始古代中世編」より)

確認可能な遺構
 屋敷跡の平場?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月18日 12時05分から13時15分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/04/26 )
 山村の遅い春
 「後藤屋敷」と伝わる個所は、標高約650mを測る日野谷南側緩斜面中腹に展開する奈良原集落の最奥部(最上部)付近に所在。周囲に散見される宅地造成や耕地整備に伴う石積みはどれほど古くとも近代以降のものかも知れないという印象であれました。その周囲にはミツバツツジや山桜、菜の花などが咲き乱れる恰も桃源郷との言葉が相応しいのどかな山村の一集落でありました。
 仮に後藤氏がこの日野谷に来住するようになった時代にもこのような風景が存在したとするならば、南側斜面に位置し日照時間も多いことから明らかに七村城付近の峡谷の風景とは大きく異なるものがあり、その定住土着の大きな動機の一つであったようにも思われてなりませんでした。

後藤屋敷の付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
後藤屋敷付近の様子
( 2009/04/18 撮影 )

訪城アルバム
奈良山集落の全景
春日神社
凸1 奈良山の集落
 日野谷の奥、標高650mを測る南側斜面に点在する奈良山の集落では、折しも各所に菜の花、 ミツバツツジヤエザクラなどが咲き誇り、山村の遅い春を謳歌しているようでした。
 「後藤屋敷」は、この恰も桃源郷のような集落の最上部の個所に所在しておりました。

凸2 春日神社
 藤原氏とその守護神である春日大社との関わりから、その後裔とされるも後藤氏、その縁戚となった小柏氏との関連も想定される奈良山集落の中心部に所在する春日神社。
 然しその勧請の経緯も含めて詳細につきましては不勉強のため不明です(汗)
交通案内

いつもガイドの案内図(奈良山集落内の最奥部付近)

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史関係
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)

■史料

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)


・2009/04/26 HPアップ
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