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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  七村城の全景 七村城 七村城の堀切状地形
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/18のブログ
所在地
 群馬県藤岡市上日野鳫来峯36579    ※群馬県文化財データベースより
歴史、人物、伝承

微妙な城郭遺構群
 山崎一氏などの見解によりますと、尾根筋南西の主郭と北東尾根筋先端の2群に分かれた梯郭形式の山城とされています。しかし北東尾根筋部分には春日神社の小祠が鎮座し、神社遺構と城郭遺構の判別が難しい印象もあり、また何れの郭(削平地)も小規模なもので明らかに小屋掛けするには不十分な規模であることが窺えます。
 出所不明の伝承によれば後北条氏家臣であった後藤五左衛門基明が、後北条氏滅亡後に十数名の家臣と共に土着して築城したとされています。そののち後藤氏は、鮎川下流の奈良山に移住して小柏姓(日野七騎の一家)に改めたとされています。(「藤岡市史資料編」「日本城郭全集」などより)
 この点について、まず城郭としての形式は戦国期以前のものであることが窺われると共に、落武者同様の僅か十数名の集団で築城するというのも極めて不自然な経緯と考えられます。また後藤氏の出自にも藤原氏説、平氏説などの諸説があるとのことですが、その詳細は不明のようです。(「藤岡市史原始古代中世編」より)

確認可能な遺構
 郭、切岸、堀切?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 ・2008年1月2日  15時20分〜15時40分
 ・2009年4月18日 10時50分から11時45分
再訪
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/02 )
 たまには名誉ある撤退も
 付近は標高600メートル以上もある上に日照時間も極端に少ない厳冬期の日野谷沿いの森閑とした山奥でした。このため途中の県道177号線も日中であるにも拘らず一部は路面凍結した状態でありました。いわゆるブラックアイスバーンという状況ですね。この状況を確認した段階で、いちおう未だ命には未練がありますので、所在地および登り口の確認だけとなる可能性を覚悟しました。四駆のスタッドレスですが、あくまでもブラックアイスバーンには無力であることを肝に命じました。
 現地に到着後、徐に足元を確かめながら徒歩にて状況把握を開始しました。稜線北側の栃の木沢伝いの林道崖には50センチほどの氷柱が溶けずにそのまま成長中でした。さらに登り口となる栃の木沢に架けられたコンクリート橋は右岸の川岸がそっくり流失しているというワイルドな景観が眼前に広がっておりました。このため、些か頼りなげな丸太を束ねた臨時の橋が継ぎ足をされておりました。登り口自体はいたって明確であり、地形から判断した所要時間は踏査・記録等を含めても最大で2時間ほどかと推定。
 さて登り口付近は稜線東側のため、気温の低下が著しくこの時点でおそらく摂氏3度前後という状態です。指先の感覚が次第に無くなっていくのをひしひしと感じつつ、デジカメが故障しないうちにとっとと撤退することに決めました。この結果この日3番目の目標である七村城は単に所在地と登り口を確認しただけにとどまることと相成りました。

( 2009/04/21 )
 季節の厳選
 上記の2007年度の冬に続く再訪で、無論この間はHPは未更新のままという有様でした。下流域の鼠喰城とセットで探訪することを頭の中で描きつつ、気力体力不足等の諸事情によりズルズルと先送りとなっておりました。
 なお今回は武蔵直登メンバーの5名勢揃いという強力なる陣容で鼠喰城の探訪に先駆けての踏査です。さて実際に踏査してみると、神社境内とその上方の尾根筋が城跡とされていますが、郭としての規模も極めて小さく城郭遺構そのものについてはいささか明瞭性を欠く印象が色濃く感じられました。そうしたなかでは寧ろ堀切状の峠道が最も城郭遺構に相応しいようにも思われたのであります (^^ゞ
 探訪した季節の違い、単独と強力メンバーという態勢の違いなどから、些か拍子抜けという感もあったようにも思われました。また前回時にはもう一つ奥の方の標高700m以上に存在するピークを主郭跡と誤認していというたことも判明しました(汗)

「七村城主郭付近の全景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
七村城主郭付近の全景 (A) ⇒冬景色
( 2009/04/18 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
七村城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
城跡の東側を北流する「栃の木沢」 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀切状の地形を呈する「峠道」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 栃の木沢
 2年前の台風によりこの地域は大きな被害を受けたそうで、この栃の木沢も大きく川幅が広がってしまったようでした。城跡東側を北流し城跡の北東部で鮎川(あいがわ)へと合流しています。
 この2本間河川により城跡の北、東の二方面は天然地形による防御態勢が具備しているということになります。
凸2 堀切状の地形を呈する「峠道」
 現状の機能としては確かに麓に所在する数軒ほどの集落からこの先の墓地へと向かう峠道となっています。
 それでも緑泥片岩質の尾根筋を削った地形は下段の春日神社の郭と上段の主郭群とを断ち切る堀切の役割を果たしていたようにも思えてならないのでありました。
⇒2−2撮影角度を変えた画像

春日神社の小祠 ⇒ 画像クリックで南西方向の痩尾根画像へリンク
尾根筋の小ピーク ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 春日神社の小祠
 有効幅約3m、長さ15m前後という狭尾根筋の削平地(小郭)であります。
 しかし神社建設に伴う尾根筋の削平との区別がつきにくいものがあり、物見などの城郭遺構にそのまま直結できるかどうか些か曖昧な印象もありました。
⇒3−2南東方向から祠へと続く痩尾根
凸4 尾根筋の小ピーク
 自然地形か人工地形かなんとも言えない堀切状の峠道を見下ろす格好の小ピーク(乃至小郭)です。
 山深いこの地にも確実に春が到来し折しもミツバツツジが、北側斜面という条件にもかかわらずその鮮やかな花を咲かせておりました。

主郭直下付近の削平地 ⇒ 画像クリックで拡大します
七村城主郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭直下付近の削平地
 削平された平場なのか自然地形なのかの判断が難しい痩尾根であります。
 かりに小屋掛けするには全体として余りにも狭すぎることと、峡谷の北東斜面という条件は居住性を著しく欠くものと考えられます。
凸6 七村城主郭付近
 さほど広いとはいえない主郭から下方の郭群(平場)を俯瞰したものです。
 「藤岡市史資料編」(山崎一氏の見解か)によりますと南北朝期に散見される梯郭式の山城の一種とも解される見解が示されています。専守防衛というよりもひっそりと隠遁するに相応しい小規模な城跡なのでありました。
⇒6−2厳冬期の主郭付近遠景
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
■郷土史関係
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 上毛古城塁址一覧を所収

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)⇒


・2009/04/21 HPアップ
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