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1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/13のブログ 山楯 三月楯
所在地
 山形県村山市大字楯岡字楯山
歴史、人物、伝承

最上家重臣楯岡氏の居城
 応永13年(1406)に最上氏一族である最上満国が楯岡氏を名乗り、天正12年(1584)の天童合戦では最上義光に従い、最上氏重臣として7代満茂が文禄4年(1595)に雄勝郡湯沢城へ移るまで楯岡氏の居城としてつづいたとされる。また、城郭としての普請は西側山麓の城下町を含め楯岡満茂の代に整備されたものと考えられている。
 その後最上氏の支配のもと中山玄蕃、山野辺義忠、鮭延愛綱が城代として入部し、元和4年(1618)には義光の実弟甲斐守光直が高から1万6千石の知行を受けて入部したが、元和8年(1618)の最上氏改易により最上氏支配の時代に終りを告げた。なお最上氏以前には前森氏、本城氏(里見氏とも)が支配したとの伝承もあるという。(「南出羽の城」等より引用)

確認可能な遺構
 主郭、郭、小口、帯郭、堀切、切岸、腰郭など多数
文化財指定
 
訪城年月日
 2009年5月13日 16時20分から16時25分
訪城の記録 記念撮影

 ここも麓から ( 2010/11/17 記述 )
 比高差は約80mほど、東側にバラ園が併設されるなど公園化されているためある程度の整備がなされている模様です。しかし東西約600m以上にも及ぶ雛壇状の郭群が所在していることから、探訪所要時間は少なく見積もっても150分前後は必須と推定されました。この地方に独特の夥しい帯郭、腰郭群を伴う縄張り構成で、実際の踏査にあたっては相当の気力と労力を必要とするものと考えられます。
 この日は相変わらず体調が回復せず、所在地の確認のみとし踏査そのものは先送りとなりました。楽しみはあとに残しておくとしても遠方ゆえに必ずしも再訪できるとは限りません。実際にこの更新時点では、既に1年半という歳月が流れてしまいました。
 下記の画像は北東麓の湯沢沼畔から撮影したものです。画像の中央部に何やら人工的な雛壇状の地形も見えますが、これは桑畑などの耕作に伴う地形の改変かと思われます。また稜線部中央部のやや左寄りに、堀切遺構が所在すると思われる鞍部が樹木越しに見え隠れしています。

楯岡城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
楯岡城遠景
( 2009/05/13 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「出羽諸城の研究」(沼舘 愛三 著/1980/伊古書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「村山市史」(1991/村山市)
「天童市史 上巻」(1981/天童市)

史料、地誌、軍記物
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)


・2010/11/17 HPアップ
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