凸最上家重臣楯岡氏の居城 応永13年(1406)に最上氏一族である最上満国が楯岡氏を名乗り、天正12年(1584)の天童合戦では最上義光に従い、最上氏重臣として7代満茂が文禄4年(1595)に雄勝郡湯沢城へ移るまで楯岡氏の居城としてつづいたとされる。また、城郭としての普請は西側山麓の城下町を含め楯岡満茂の代に整備されたものと考えられている。 その後最上氏の支配のもと中山玄蕃、山野辺義忠、鮭延愛綱が城代として入部し、元和4年(1618)には義光の実弟甲斐守光直が高から1万6千石の知行を受けて入部したが、元和8年(1618)の最上氏改易により最上氏支配の時代に終りを告げた。なお最上氏以前には前森氏、本城氏(里見氏とも)が支配したとの伝承もあるという。(「南出羽の城」等より引用)
凸 ここも麓から ( 2010/11/17 記述 ) 比高差は約80mほど、東側にバラ園が併設されるなど公園化されているためある程度の整備がなされている模様です。しかし東西約600m以上にも及ぶ雛壇状の郭群が所在していることから、探訪所要時間は少なく見積もっても150分前後は必須と推定されました。この地方に独特の夥しい帯郭、腰郭群を伴う縄張り構成で、実際の踏査にあたっては相当の気力と労力を必要とするものと考えられます。 この日は相変わらず体調が回復せず、所在地の確認のみとし踏査そのものは先送りとなりました。楽しみはあとに残しておくとしても遠方ゆえに必ずしも再訪できるとは限りません。実際にこの更新時点では、既に1年半という歳月が流れてしまいました。 下記の画像は北東麓の湯沢沼畔から撮影したものです。画像の中央部に何やら人工的な雛壇状の地形も見えますが、これは桑畑などの耕作に伴う地形の改変かと思われます。また稜線部中央部のやや左寄りに、堀切遺構が所在すると思われる鞍部が樹木越しに見え隠れしています。
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