凸長岡山の戦い 文久3年(1863)8月、幕府は大規模な百姓一揆対策を理由として寒河江、柴橋両代官陣屋を統合する構想を示した。これに対して地元の村民は旧寒河江城本丸への移転存続を嘆願した。しかし、幕府は寒河江北西の長岡山に統合陣屋建設を決定し、慶応3年(1867)8月から両陣屋付の村々から述べ3万6千人の村民を動員しその普請に着手し、土塁・空堀を備えた陣屋を突貫工事で完成させたという。 陣屋は東西60間(約108m)、南北120間(約216m)の規模を有し、土塁高さは1間余り(約2m)、3か所の郭を配する城郭であった。陣屋建造物は戊辰戦争により焼失したが、現在は公園整備などによりグランド、野球場、ツツジ園などが設置されているものの、凡その郭構成は把握できる。(「国別城郭・陣屋・要害台場事典」より) なお「長岡山の戦い」は、奥州戦線における東軍の敗色濃厚となった明治元年(1968)9月20日(新暦11月4日)に桑名・庄内・唐津藩兵約300名と官軍(西軍)約2500名の間で行われ、長岡山に立てこもった東軍が敗退し白岩・慈恩寺方面へと退却したという。(「紀行奥羽戦争」より)
凸 幕末遺構 ( 2010/09/15 記述 ) 複郭の証左となるべく幕末に構築された土塁の一部が現存しています。ただし市営グランドとツツジ公園の中であるため、相応の地形改変が施されておりました。訪れましたのは折からツツジ祭りの真っ最中で、花に向かってデジカメを向ける多数の人々のおいでになる中、こちらはただひたすら花の無い土塁に向かってシャッターを押し続けるのでありました(笑)。 但し近世代官陣屋とはいっても、こちらは「長岡山の戦い」が行われた戊辰戦争当時の歴史のある代官陣屋なのであります。なおこの日は、なかなか天候が読めないので本格的な山城方面には近寄れないのでありました。 また翌日の天童市の舞鶴山(天童古城跡)にて、ツツジを見学にこられた観光客の何組かのご夫婦に、この長岡山のツツジ情報(移動所要時間、道路アクセス、今が見頃、売店あり)を提供。因みに舞鶴山の方のツツジは本数も少なく、それよりも麓の神社付近の方が見ごたえがありますなどとガイドも。あ、特に寒河江市方面から依頼されているという訳ではありませんでしたが。
・いつもガイド の案内図です