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山形県村山市の城館索引へ戻る  稲下楯の土塁稲下楯のバナー稲下楯の北西土塁
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/13のブログ 大久保城 宝鏡寺楯
所在地
 山形県村山市稲下
歴史、人物、伝承

近年に確認された城館跡
 最上川西岸に所在する単郭方形の居館だが詳細な経緯は不明の模様である。「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)に収録されている城館遺構であり、「山形県中世城館遺跡調査報告書」/1996/山形県教育委員会)の悉皆調査には含まれてはいない。
 付近には白鳥氏関連の居城とも伝わる白鳥城および同家臣の日影楯などの遺構群が存在していることから、白鳥氏との間に何らかの関連を有する勢力等との関わりも想定されるがあくまでも推測の域を出ない。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月13日 16時40分から17時00分
訪城の記録 記念撮影

 単郭方形の居館跡 ( 2010/12/04 記述 )
 この日は天候と覇裏腹に腹具合が不良。それでも比高差のある山城は無理でも平地の神社ならばどうにかという体調。稲下集落西側の鎮守である稲荷神社境内の城館遺構は、北辺と西辺に残存する土塁と空堀跡からなっております。
 空堀の深さ自体は最大でも背丈程度ですが、その数mに及ぶ堀幅を伴い単郭方形の居館形式遺構の典型のような佇まいを伝えています。空堀の内部には高さ80センチmほどの土塁がめぐらされ、また北西角部分には櫓台状の地形も見ることができますが、後世における地形改変の可能性も否定できません。
 何れにしても神社境内地の形状に合わせた小規模なものではないことから、天明6年(1786)と伝わる稲荷神社の勧請に伴う普請に直結するようなものでないことだけは確実であると考えられます。

稲下楯の郭と西側土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
稲下楯の郭と土塁遺構 −画像A−
( 2009/05/13 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については掲載の略測図等を参考にして作成いたしました。

稲下楯概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
稲下楯北側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
北西角付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北側の土塁遺構
 概ね80cm程の高さの土塁で中央部には土橋状の地形を伴う小口跡とも思える土塁の切れ目が存在していますが、後世の地形改変に可能性が無いのかどうかの判断がつきかねます。
凸2 北西角付近 
 郭内側から撮影した北西角付近の様子で、土塁・空堀ともに最も規模の大きな個所であり、空堀の外側にも二重土塁状となるような痕跡も残されておりました。

郭外から撮影した北西角 ⇒ 画像クリックで拡大します
⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 郭外から撮影した北西角
 見かけ上の空堀や土塁の規模が最も大きい北西角付近の様子で、空堀の深さは最大2m、空堀幅は10m近くの規模を残しています。
凸4 西辺の空堀と土塁
 公道や宅地などに隣接し後世の地形改変の影響が大きいと思われる北辺部分の空堀跡よりも遺構としての残存状態は良好でした。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)→この悉皆調査には掲載が無く、「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)の記述によれば、その後において郷土史家の手により存在が確認された城館跡であるとされている。

歴史・郷土史関係
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「村山市史」(1991/村山市)
「天童市史 上巻」(1981/天童市)


・2010/12/04 HPアップ
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