凸最上氏家臣大久保氏の居城か 最上川支流の千座川と田村川に南北を挟まれた比高差10mほどの河岸段丘上に所在し、西隣には上宿、下宿などの城下町を想起させる字名を残し、南方には中世城館に関連すると思われる楯下釜の字名も残されている。なお、城館名の表記については「参考・引用資料」が示すように様々な呼称がなされている。 「最上義光分限帳」(東大資料編纂所所蔵本)によれば、「一 高300石 大久保主馬」という人物が館主として記されているが、「最上氏系図」(宝幢寺所蔵)に記された最上一族の大久保満頼(大窪氏とも)との関わりは不明とされており、水堀を含む城郭としての整備については天正年間以降の最上氏の北進による勢力の拡大に伴うものと解すべきか。(「日本城郭体系 3」「角川地名大辞典県6」「山形県中世城館遺跡調査報告書」「村山市史」などより引用した)
凸 城址碑に気付かず ( 2010/11/20 記述 ) 大久保小学校北側に所在する東西に分かれた夫々延長50mほどの水堀が城郭関連遺構であるものと考えられます。堀幅そのものは最大で12mほどを測りますが、大規模な近世城郭のものと比べると遥かに小規模なものとなっていました。どちらかといえば無名に近い城跡遺構であるにもかかわらず、城址公園化された景観として保全されていることに感謝を。 また「村山市史」によると、本丸と推定されている大久保小学校の正門前に城址碑が建立されている旨の記述がありましたが、そのことに気付いたのは何と1年半後の今月に入って資料整理をしている最中なのでありました(汗)
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